佐藤春夫の探偵小説が文庫で

維納の殺人容疑者

江戸川乱歩によって日本の探偵小説興隆に功績があった作家として崇め奉られたのは、谷崎潤一郎佐藤春夫の二人の「文豪」である。この二人は文豪なるがゆえに、一般的な小説からは一段低く見られがちだった探偵小説(的小説)を書いていたことを、乱歩は見逃さなかった。しかも書かれた作品はいずれも上等なものばかりだった。
谷崎が書いた「途上」や「白昼鬼語」などは種村季弘さんが編んだ『美食倶楽部』*1ちくま文庫)や、集英社文庫のアンソロジー谷崎潤一郎犯罪小説集』*2に収められ、読むことができたが、佐藤春夫の作品は入手が容易だったとは必ずしも言えない。谷崎にくらべ、むしろ佐藤春夫のほうがより積極的に探偵小説とかかわってきたにもかかわらず、である。
この点については、乱歩をして興奮させたという、佐藤春夫による探偵小説の定義づけが有名である。

要するに探偵小説なるものは、やはり豊富なロマンチシズムという樹の一枝で、猟奇耽異の果実で、多面な詩の宝石の一断面の怪しい光芒で、それは人間に共通な悪に対する妙な讃美、怖いもの見たさの奇異な心理の上に根ざして、一面また明快を愛するという健全な精神にも相結びついて成立っていると言えば過言はないだろう。(後掲、中島河太郎「日本探偵小説史」より孫引き)
彼のテキストは、かつて中島河太郎編『新青年傑作選集1 犯人よ、お前の名は?』(角川文庫)に「家常茶飯」が、『日本探偵小説全集12 名作集2』創元推理文庫*3に「「オカアサン」」が収録された。この二作は佐藤の探偵小説として必ず引き合いに出される著名な短篇である。それ以外はあまり流布していなかったのではあるまいか(むろん全集などは別として)。
わたしは昔、乱歩の日本探偵小説史を概観したエッセイや、中島河太郎「日本探偵小説史」(『日本探偵小説全集12 名作集2』創元推理文庫*4)のうちの「11 谷崎潤一郎の犯罪小説」「13 芥川と佐藤」を繰り返し繙き、そこで紹介されている谷崎・佐藤(および芥川)の探偵小説的作品に思いをつのらせたものだった。
佐藤春夫に限れば、「指紋」「女誡扇綺譚」「家常茶飯」「「オカアサン」」「陳述」「更正記」「維納の殺人容疑者」「女人焚死」などがある。
上に掲げた佐藤春夫の探偵小説短篇の主要なものは、その後『怪奇探偵小説名作選4 佐藤春夫集』*5日下三蔵編、ちくま文庫)に収められ、簡単に読むことが可能となったのは喜ばしい*6
そのうえこのほど、長篇『維納の殺人容疑者講談社文芸文庫*7に収録され、広く読者を獲得することになったのには、喜び以上に驚きをおぼえ、また、わたしが探偵小説に熱中した十数年前を思い隔世の感を抱かされたのであった。今回の文庫化を機に、はじめて通読することができた。
本書は、1928年ウィーンの郊外の森で起こったある婦人殺害事件について、逮捕された元情人の実業家の裁判記録をもとに、その法廷をノンフィクション風に記録した作品である。犯罪実録と言うべきか、裁判小説と言うべきか、初刊には「佐藤春夫作」でなく「纂述」とある。記録を「編纂」して再構成したというわけである。
たまたま春夫の弟秋雄がウィーン滞在中にこの裁判による世間の沸騰に遭遇し、興味を抱いて新聞記事などの資料をできるだけ持ち帰ったということから、兄春夫もこの事件に関心を持つに至ったらしい。
ウィーン(オーストリア)の裁判制度は陪審員制をとっているということもあり、裁判は検事と弁護士との間で虚々実々活発な議論が戦わされ、数多くの証人たちが法廷で証言した。個人的には、どうも裁判小説(あるいはそれに類する文学)は無味乾燥、退屈な印象が否めず、積極的に読もうという気にならない。そのうえこの作品の場合、海外遠く離れた国の事例で、しかも資料が完備しているわけでもないという条件のうえで組み立てられたということで、読む前はなおのこと面白いのかどうか不安があったというのが正直なところであった。
ところが読んでみるとけっこう面白い。論理的な部分が苦手なわたしでも、それほど違和感なく溶け込むことができる。「見てきたように…」とはよく言うもので、佐藤春夫はよくここまで、実見したこともない裁判所の空間にただよう雰囲気、被告や証人、裁判官や検事、弁護士たちの息づかいを生々しく伝えられるものよと感動すらおぼえた。
裁判では被告のアリバイが大きな焦点となった。殺害当日の同じ時間帯に、殺害現場とは別の場所で被告(とおぼしき)人物を見たという証人が何人か出廷している。それらによれば、どうやら被告と瓜二つの人物が(少なくとも二人)いたらしく、そのためにアリバイは確定しなかった。
被告のそっくりさんが実際証人として出廷しているが、その場面が面白い。
身の丈も略々同じだし、服装さえも同じ黒みがかった背広で出廷した。英吉利風に刈られた口髭、後に掻上げた頭髪、鼻の附根を中心にして放射線状をなした目、鼻、眉など全く被告と瓜二つである。(222頁)
傍聴席で「そっくりだ!」という感嘆の声があがっているかたわら、自分とそっくりな他人を目の前にした被告と証人はどんなふうに振る舞ったか。
被告の前に向合って証人と被告は互に穴のあくほど見つめ合って居たがとうとう両方とも同時に苦笑し始めた。まるで実体と鏡面の映像とである。(223頁)
証人が退廷するときも、二人は顔を見合わせて苦笑を交わしていたという。厳しい裁判の経過とはまったく無関係に、こんなリアルな描写がたまらなくおかしい。佐藤春夫はこれを「離魂体」(ドッペルゲンゲル)と呼んでいる。
いまでこそ「法廷ミステリ」はミステリのジャンルのひとつとして確立された感があるが、昭和初年の段階(刊行は昭和8年)でこれほど完成度の高い小説があったことに、今さらながら驚いたのであった。

*1:ISBN:4480023291

*2:ISBN:4087497399

*3:ISBN:4488400116

*4:ISBN:4488400124

*5:ISBN:4480037047

*6:だからちくま文庫はこのシリーズを絶版にしないでほしいものだ。

*7:ISBN:4061984268