[読前読後]追憶の文学、あるいは夢の顔合わせ

(2001年12月4日に書いた記事の再掲)
小沼丹さんの『木菟燈籠』(講談社)を読み終えた。
何が起こるわけでもない。平静な暮らしのなかで出会う人々、小動物、木、花などとの対話の断面を切り取り、見事な言葉で結晶化する。そんな魔法のようなわざにただ見とれて陶然とするばかり。
小沼文学といえばユーモアという言葉を思い浮かべるが、今回『木菟燈籠』に収録されている十一の短篇を読んではたと気づき、それが他の作品(たとえば『懐中時計』など)にも通底していることに思いが及んで、自分で納得してしまった。
小沼文学には「死」というテーマが色濃く投影されている。すでに小沼ファンの間では周知の事柄に属するのかもしれないが、鈍感な私にもようやくそれを感じ取ることができたようだ。もともと『懐中時計』などに収録されている“大寺さん物”は、奥様を亡くされた小沼さんご自身の姿がそのまま写しとられているわけだが、本書『木菟燈籠』でも、大寺さんだけでなく、ご本人そのものも登場して、しきりに亡妻の話題に話が及ぶ。
また、「「一番」」は大衆割烹の店を出している末さんや、馴染みの鮨屋「一番」のおかみさんが亡くなった話、最後の「花束」は新宿の酒場でよく顔を合わせた飲み仲間の毛さんが亡くなった話、「槿花」は火災保険の仕事で小沼家へ年二回ほど訪れる松木の爺さんが亡くなった話、松木の爺さんは、大寺さん物で、大寺さんの後妻が急病で入院した話である「入院」にも登場する。こんなふうに、作品のいたるところに「死」や「病気」が登場して、それが登場人物の対話から醸し出されるユーモアと背中合わせに、お互いがお互いを際立たせているという格好になっているのだ。
「死」を読者に伝える締まった文章がまた素晴らしい。「「一番」」で末さんが亡くなったことを知った「私」の心象。

店に這入るといつも正面に、白いコック帽を被つて丸い赤い頬つぺたをした末さんの姿がある。それがこの夜は見えなかつたから、何だか物足りない気がしたのを想ひ出したが、末さんはこれから二度と姿を見せないと思ふと、どこからか寒い風が吹いて来るやうな気がした。
また、「花束」で、毛さんが亡くなったことを知った「私」の心象。
親爺の寄越した酒を飲んでゐる裡に、いつだつたか毛さんの奥さんが大きな花束を抱へてゐたのを想ひ出した。あれは何の花束だつたのだらう? 毛さんも奥さんもにこにこしてゐて愉しさうだつたから、そのときは何かいいことがあつたのだらうと思つたが、或はそれは思違だつたのかもしれない。
さう思つたら不意に空気が動かなくなつて、辺りがしいんとしたやうな気がした。
寒い風が吹いて来る、空気が動かなくなる、知己の死を知った瞬間の気持ちがこのたった一行に過ぎない文章のなかに封じ込められているのを読んで、鳥肌が立ってきた。
小沼さんがよく使う言い回しに、「かしらん?」という疑問形がある。「あれはどうなつたかしらん?」、こんな形で使われて余韻が残る。この多用される「かしらん?」という疑問符も、よく考えてみれば追憶のなかで過去に出会った人物や物などを懐かしく振り返る文脈で使われていることが多い。 小沼文学を「追憶の文学」と呼んでみようか。
ところで本書冒頭の一篇「四十雀」には驚かされた。これに驚喜したため、全編を読み通すパワーが充填されたといっても過言ではない。というのは、鎌倉の林(房雄?)邸を訪れたときのこのエピソード。
話をしながら何となく薄の方に眼をやつてゐたら、一人の男が薄の前を横切つて客間の外に立つた。半ば潰れた古ぼけた中折帽子を被つた中年男で、兵隊の着るやうな襯衣を着てゐた気がするが、はつきり想ひ出せない。どう云ふ人物なのか見当が附かなかつたが、…
という人物が、実は吉田健一だったのである。私の敬愛する二人の英文学者がこのような出会いをしていたとは。その後一度出版社で出会ったことも記されている。 小沼さんのロンドン滞在記『椋鳥日記』(講談社文芸文庫)を読んだり、倫敦とか卓子といった言葉づかいを目にして、吉田健一を思い出さないわけがない。この二人は知り合いなのだろうかと思ったこともある。この二人の出会いを知っただけでも、読んだ価値ありという一書であった。ちなみにこの「四十雀」には、小沼さんが久保田万太郎久生十蘭とも鎌倉で会ったという話が書き留められていて、これもまた興奮させる挿話であった。