平成日和下駄(43)―「放浪」の果てに

(2003年2月15日記)

林芙美子1903年(明治36)12月31日に生まれたとされる。いま伝聞体で記したのは、出生届が翌年1月5日に出されたからで、また誕生日に諸説あるからである。川本三郎林芙美子の昭和』(新書館、以下川本書と略)巻末の年譜によれば、母はその年の六月に生まれたと語り、本人は五月生まれだと『放浪記』などに記しているという。いずれにせよ1903年に生まれたことは動かせないようで、とすれば今年は生誕百年ということになる。川本書はまさに絶妙のタイミングで出版されたわけだ。私もそのおかげを蒙って、彼女の生誕百年という節目の年に彼女の人となりや作品に触れる機会を得ることができた(感想は2/7条参照)。


川本書を読んで知ったのは、彼女は現在の新宿区下落合近辺に長い間居を構えていたということであり、また終の棲家となった邸宅はいま区立の記念館となって保存されているということである。読み終えないうちから記念館に行きたくてウズウズしていたのだが、今月は週末なかなか時間がとれず思うにまかせなかった。今回ようやく念願かなって旧林芙美子邸・現新宿区立林芙美子記念館(以下記念館と呼ぶ)を訪れることができたのである。


記念館の最寄駅は西武新宿線高田馬場から二駅目の中井。現住所も新宿区中井二丁目である。中井駅の改札を出ると、駅前には東京のどの町にもあるような小さな商店街が広がっている。そこを抜けて山手通りの下をくぐり西へ歩く。左手(南)は西武新宿線の線路が、その先には妙正寺川が平行に走っている。建物が建て込んでいて想像しにくいけれど、左すなわち川に向かって低くなる地形であり、右手には目白の台地(住所は中落合)へと上る坂道が幾本も伸びている。地図を見ると東から順に一の坂から八の坂まで、数字がついた坂道が南北平行に並ぶ。記念館はそのうちの四の坂の中腹にある。台地のふもとを縫って東西に走る道を歩くと、右手に木々が鬱蒼と茂っている場所があってすぐわかる。

川本書のなかで林芙美子と落合の土地の関わりについて触れているのは第八章「窪地の小さな町」である。それによれば彼女は落合のなかで三度転居しているという。最初は昭和5年5月に上落合三輪の借家、次いで昭和7年8月に下落合にある洋館の借家、そして記念館になっている三百坪の敷地を購入し邸宅を新築して移ったのは昭和16年8月。彼女は昭和26年に急逝するから、記念館には10年しか住んでいない。しかもその間満州や中国に従軍のため渡り、また長野に疎開しているから、記念館に落ち着いていたのはさらに短い時間になるだろう。


この記念館は前述のとおり四の坂を目白の台地へと上っていく途中、南向き斜面の理想的な場所にある。そこに建っている邸宅は、ひと言、素晴らしい、もうひと言、理想的、このふた言に尽きる。玄関から四の坂沿いに竹林があり、また邸内の庭にはさまざまな木々や草花が植えられている。一つ一つに植物の名前を示す名札がかけられていて、まるで植物園にでもいるかのようだった。


建物は純和風の平屋。「生活棟」と「アトリエ棟」二棟が中庭を隔て相対し、南に向けて庭園が広がる。西の端には堅牢な石蔵があり、北斜面(裏山)もまた庭のごとく木々が丁寧に植えられ、小道がしつらえられてある。野仏には花が供えられてあった。さらに裏山の上には芙美子の夫である画家の林(手塚)緑敏が手塩にかけた薔薇園がかつて広がっていたという。


現在記念館は二つの棟の間にある勝手口脇から入場するようになっている。生活棟には使用人室であった小部屋に二段ベッドが作りつけられ、また芙美子も立った台所の出窓がある。勝手口脇の土間から中庭に出ると左の生活棟には総檜づくりながらこぢんまりしている浴室と、ひと続きの洗面所を窓越しに覗くことができる。生活棟は中心部が茶の間、いまは出入りできない玄関には取次の間があり、南に母キクが住んだ小間が突き出る。また北には客間があって、人気作家だった芙美子の原稿を待つ編集者が控えていたという。

中庭をはさんで西にあるアトリエ棟のもっとも日当たりのいい南側には寝室、その北に次の間・書庫があり、中央に芙美子が執筆の場としていた書斎、もっとも西側には記念館のなかで唯一の洋室であった夫のアトリエがある。いまこのアトリエのみに入ることができ、中には芙美子の自画像や書簡、夫の作品などの資料が展示されている。


パンフレットや図録に転載されている「家をつくるにあたって」という文章によれば、この家の基本構想を立てたのは芙美子自身であり、自ら参考書を読み込んだうえ設計担当の建築家と入念な打ち合わせを重ねて作り上げていったとのこと。その基本理念は「東西南北風の吹き抜ける家」「客間には金をかけない」「茶の間と風呂と厠と台所には、十二分に金をかける」ということだった。たしかに風通しがきわめて良さそうな間取りであって、縁側も広く、庭の木々と相まって季節を体感できる理想的な日本住宅である。そう、これを「和風」などと中途半端な言葉で表現するのではなく、これこそが日本の住まいというにふさわしい作りなのだ。洋館も好きで、その都度うらやましいと思いつつ昔の洋館を眺めている私だが、今回の記念館ほど「住みたい」と思わせる家に出会ったのは初めてである。やはり自分も日本人なのだなあ。理念の後半部でいえば、茶の間は掘り炬燵が設けられ、風呂は前述のように総檜、厠は当時では目新しい水洗を採用していたという。


ところでこの記念館を設計した建築家というのが、前衛建築家として著名だったという山口文象であるというのも興味深い。川本さんによれば山口はあの美しい吊り橋清洲橋の設計家なのだそうだ。彼と京都の住宅を視察に行ったり、議論を重ねてあの日本住宅を作り上げたという芙美子の「住環境」への執念は、『放浪記』でつづられている根無し草生活の果ての安定への憧れということで説明できるのだろう。


平成元年に死去する緑敏氏がこの家を守り続け、彼の没後新宿区が遺族の協力で記念館として整備保存した。この両者の姿勢に敬意を表したい。記念館周辺の中井という町には、記念館と同じく落ち着いたお屋敷が多く好もしい。憧れがつのる。東京には住みたいと思う町が多すぎる。自分の体がいくつもあったらと夢想する。