林芙美子と成瀬映画

茶色の眼

林芙美子の長篇『茶色の眼』*1講談社文芸文庫)を読み終えた。
この作品は、成瀬巳喜男監督の映画「妻」の原作である。また、川本三郎さんの『林芙美子の昭和』*2新書館、旧読前読後2002/2/6条)にて、この作品が“サバービア文学”との関わりで論じられていることに啓発されたこともあって、以来興味を持って文庫版も入手、いつか読もうと思っていた本だった。
いまいちど川本さんによる“サバービア文学”論を思い出してみる。サバービア(郊外住宅地)文学とはアメリカの文学潮流で、第二次大戦後、中産階級のサラリーマンたちは都市の郊外に住宅地を求めて安定した生活を求めるが、画一的な暮らしに亀裂が生じて問題が発生するという主題を追ったものだという。
川本さんは『茶色の眼』や絶筆となった『めし』にそうした主題との共通性を見いだしている。奇しくも二つとも成瀬監督によって映画化された作品だ。これらに「夫婦」を加えた三本は、成瀬監督の「夫婦の危機物」三部作と呼ばれている(阿部嘉昭成瀬巳喜男―映画の女性性』河出書房新社)。いずれも倦怠期夫婦が直面する危機を描いた作品であり、これらがサバービア的ということなのだろう。
川本さんの本を読んでからしばらく経ち、また「妻」を観てからも2年以上が経ってしまった。この間わたしの頭のなかでサバービアがひとり歩きし、サバービア文学=家族(もしくは夫婦)の郊外生活を主題にしたものというすりかえがなされてしまっていた。
だから今回、『茶色の眼』を読んで、主人公夫婦の郊外生活が必ずしも主題となっていないことを知って、いささか戸惑った。サバービア文学は、主人公たちが郊外に住んでいるか否かはさほど大きな問題ではないのである。「画一的な暮らしに亀裂が生じて問題が発生する」というテーマに目を向けなければならないのだった。
結婚から14年を経た倦怠期夫婦中川十一氏と美種子夫人に走る亀裂。妻の家事に対する態度から愛情を醒ましてしまう夫と、自分の家事に対する夫の無理解から、夫の一挙手一投足に批判的になる妻。
夫婦間の愛情がいったん醒めるともはや修復不可能、取り返しがつかなくなるに違いない。いったん人を嫌いになると、その人のやることなすことすべてが受け入れられなくなる。ましてやいつも一緒に生活する夫婦がそうした状態に陥ったら、亀裂は深まるばかり。相手の厭な面を見てもそれをすぐカバーするのが夫婦間の信頼関係であり、愛情だろう。信頼関係が薄まれば自然厭な面は厭な面として記憶に堆積しつづける。
『茶色の眼』ではそこに、十一氏と、彼の会社でタイピストをしていた「相良さん」との不倫関係が介在する。妻に嫌気がさし、逆に相良さんに対して少年のような恋情を抱く男心の浮き沈みがとても細かく表現されている。なぜ林芙美子はこんなにも男心を理解しているのだろうか、というまでに。林芙美子の筆づかいは人間心理の奥底にまで及んで描写しつくし、それがまことに面白い。大人気作家であったことがうなづける。
せっかくだから細部を忘れていた成瀬監督の「妻」を再見した。ラピュタ阿佐ヶ谷の成瀬特集で観て以来、二年半ぶりである。上原謙高峰三枝子の夫婦、相良さんに丹阿弥谷津子。上原夫妻の家に間借りする画家の卵に三國連太郎。最初二階に間借りしていた夫婦に伊豆肇と中北千枝子。高峰の妹で、現代的だがなかなかのモラリスト良美に、ういういしい新珠三千代
この映画で印象的な、高峰が食事のあと箸を爪楊枝がわりにして歯に挟まった食べかすをとり、お茶で口をゆすいで呑み込むというシーンは、原作にはない。夫の心を醒ますに至った妻のふるまいや心の動きの逐一を文字で読んでいれば、ことさらそのような際だった表現は必要ないのだ。映画だからこその誇張されたシーンだ。
映画はほとんど原作どおりに展開してゆく。原作で微に入り細を穿った心の動きは、上述のようなシーンや、上原謙が高峰の仕草を見て露骨に興醒めな顔をするシーンなどでとくに強調され、二人の間の亀裂が決定的であることを知らされる。成瀬監督の「妻」は佳作だと思っていたが、むしろこの原作あったがゆえだったことがわかっただけでも収穫だった。原作を読んでしまうと、細部が省略された映画では物足りなくなる。
お金にこだわる監督らしく、ちまちましたお金の問題を執着的に描いていた点、いかにも成瀬映画だったと言えようか。成瀬映画が一定の評価を得ているいま、林芙美子の小説ももっと読まれてしかるべきなのではないか。