吉本興業の秘密

(2002年9月2日に書いた記事の再掲)

冨田均さんによる新宿末広亭席主北村銀太郎さんの聞書き『続 聞書き・寄席末広亭平凡社ライブラリー)の面白さついては先日書いた(8/24条)。これを読んでさらに興味をそそられていた事柄に、北村さんと吉本興業東京支社長の林弘高氏との関係がある。
同書のなかで北村さんは弘高氏のことを「吉本の若」と親しみを込めて呼び、経済的な面での恩人であるとする。「大体、彼は私がなんにもしなくてもお金をくれたもの。月に二、三十円はもらっていたね」というのだ。
年齢的には一回りほど北村さんが上であったが、公私ともに親しい間柄だったらしい。「公」の面でいえば、先述の一方的な金銭の贈与に加えて、東京での吉本の寄席(花月)・劇場の建築・修繕を一手に任されていた。もっとも本書の性質上、精彩に富んで面白いのは私的な交遊のほうである。「とにかくよく馬が合った」という二人、北村さんは若から受ける恩恵の見返りとして、彼に徹底的に遊郭遊びを教えたとのこと。そこで語られている二人の関係、また、いかにも浪花のボンボン的な林さんの人柄がきわめて魅力的なのだった。
そこで、古本で買い求めたまましばらく書棚に収めていた矢野誠一さんの『女興行師 吉本せい―浪花演藝史譚』(中公文庫)を読み始めた。するとこれがまた面白い。
本書は吉本興業の創業者吉本せいの評伝である。ただ創業者というのは必ずしも正確ではない。せいは夫吉兵衛と寄席の経営を始めたものの、その事業が波に乗り出した矢先に吉兵衛が急逝する。その後自らが中心となって吉本興業をいまのような大会社に育て上げたのである。吉本といえば元会長の故林正之助氏が有名で、吉本=林正之助と思っていた私などは「なぜ吉本の会長が林姓なんだ」と疑問に思っていたのである。実は吉本せいの結婚前の旧姓が林であり、正之助・弘高両氏ともに実弟にあたるのだった。
せいは性格の正反対な正之助・弘高を自らの両腕として実際の経営に当たらせた。自分は「ご寮ンさん」として、吉本が抱える芸人たちの頼りがいのある最終的な拠り所となるいっぽうで、売れない芸人は容赦なく切り捨てるという最終判断の権限を保ちつづける。
本書のなかで「吉本の若」林弘高氏は「多分に坊ちゃん気質」「見かけに似ず神経質で、文学青年気質」「性格は多分に東京っ子的な面があり」「なかなか魅力的な人物」「仕事ぶりは、明るく、バイタリティにあふれたものだった」というように、かなり好意的に評価されている。それもそのはず、著者の矢野さんもまた弘高氏と親交があって、姉せいのことについてもいろいろとお話をうかがったという。ただその頃は自分が吉本せいについて書くということは考えもしていなかったため、メモひとつとっておらず、積極的に聞き出すこともしなかったと悔やんでおられる。矢野さんが弘高氏との交遊を振り返ったなかに、北村銀太郎(夫妻)もちらりと登場する。ここで『続 聞書き・寄席末広亭』とつながった。
矢野さんの著書はもちろん弘高氏ではなく、吉本せいが主人公である。せいが夫と死別後吉本興業を大会社にまで拡大する過程が興味深い。 大阪の端席を買い取ることから出発し、ついには一流の定席を手中にする。さらに売れっ子落語家だった桂春團治を引き抜いて専属契約を結び、春團治の奔放ぶりにもあえて目をつぶる。落語が落ち目になり、変わって万歳がブームになるや、万歳を漫才と改称して、エンタツアチャコのコンビを結成させて爆発的な人気を獲得する。そして漫才の東京進出を図った。庶民の意識の変化を敏感につかみとって常に新しい分野を取り込んでいこうという精神は、若い芸人を次々と世に送り出し、さらに音楽業界にも進出している現在の吉本興業の衰えを知らぬ勢いの底流に常に流れているようである。
そうした進取の気風と対照的に、社長と専属芸人との間で結ばれる前近代的・家内的な人間関係もいまだ変わっていないように見受けられる。吉本所属の芸人が会社の体質や社長の人柄をネタに話していることは時々テレビでも見ることがある。芸人たちがいくら所属している吉本の悪口を言っても、すでにそれをネタとして微笑ましく受け止めてしまうような感覚が自分たちにとって当たり前になっている、そのことに気づいて驚く。
新しいものと古いものを同居させつつパワーを持続してゆく吉本の秘密のようなものが、本書を読むことによって少しわかったような気がする。さて次に興味を持ったのは、本書でもしばしば言及されていた富士正晴さんの『桂春団治』(講談社文芸文庫)だ。