アナロジーの愉楽

【2001年6月2日に書いた記事の再掲】

堀江敏幸さんの最新散文集『回送電車』(中央公論新社)を読み終えた。


中味としてはエッセイ集に分類していいはずなのだが、著者的には「散文集」なのだろう。冒頭に配された「回送電車主義宣言」では、自己の文学スタイルをこの「回送電車」になぞらえている。

 

「特急でも準急でも各駅でもない幻の電車」たる回送電車は、「評論や小説やエッセイ等の諸領域を横断する」曖昧な存在たる堀江さんが生み出した書物を言い表すのに最適なのだという。

1章はもとは「図書新聞」に連載された文章群であり、そこにはさまざまな「回送電車」的現象が集められ、語られている。内田百間いうところの「臍麺麭」や、四不像、踊り場などなど。


これらを読んで感じたのは、書物のなかや巷から、自らの同類たる「回送電車」的事象を切り取る目の犀利さである。さらに、文章中では意表をつくような比喩が多用され、しかもそれが言われてみるとなるほどと納得されるものばかり。これらを要するに、堀江さんはアナロジカルな感覚が鋭いということなのだろう。


実はこのことは、すでに1章の最初の「贅沢について」のなかで半分種明かしされているようなものである。「外側と内側をきれいに腑分けしようとする通念の暴力にあらがって生まれた」臍麺麭を、「多少強引に、餡と皮を文学のアナロジーと捉えてみたらどうか」という試みがなされているのだ。


そもそもが自らの著作物を「回送電車」と規定すること自体がアナロジーの最たるものといえよう。意表をついたアナロジカルな思考、これが堀江文学の魅力のひとつかもしれない。


著者が小説的な散文に手を染めるきっかけとなったキーマンが、鹿島茂さんなのだという。この逸話を念頭に置きながら本書を読んでいると、堀江さんは物へのこだわりがないというか、物につかないという印象がある。いや、こう言ってしまうと正確ではない。日本経済新聞連載の連作エッセイを収めた4章のような、周囲にある物・事にまつわる文章があるではないかということになる。つまり、別の言い方をすれば、鹿島さんや高山宏さんのように、あるオブジェ・事象について歴史的に掘り下げようとする指向性を有していないとすべきだろうか。


4章で取り上げられた物たちは、あくまで著者本人との緊密な距離感を保ったまま、生々しく語られる。歴史性という客観化の視角の比重は低い。


もっとも生々しいといっても、ベタベタしたような物への執着が感じられるわけではなく、関わり方はあくまでドライなのだが。これは、鹿島・高山両氏が18~19世紀文学専攻、堀江さんが20世紀の現代文学専攻という違いとしても言い表せるのかもしれない。
アナロジカルな感覚が鋭いということは、世界のさまざまな事象に通暁しているということでもある。おそろしく話題が豊富なのだ。


各編数ページほどの短いもので、私にとって読みやすいものばかりなのだが、一編を読み終えるたび、一息つこうという誘惑以上に「次は何について書いているのだろう」という期待感が優越して、つい次の文章に目が移ってしまう。この連鎖でほとんど一気に読み終えることになった。


私にとっては、初めて読む堀江作品が本書であったのは、幸運だった。

ところで、本書の装丁には著者自身も絡んでいるらしい。装丁が「堀江敏幸中央公論新社デザイン室」となっている。堀江さんは、4章に収められた「クレーンの消えた光景」で述べられているように、「本づくりに関しては可能なかぎり好みを貫きたい」という信念をもっている方のようなので、それが本書のつくりにも反映されていると思われる。


実際、白を基調としたシンプルかつ瀟洒なセンスは堀江さんのものなのだろう。
1章の各編のタイトルが「…ついて」で統一される様式美、目次が行末で揃えられ、各編の見出しも行末、すなわち下方に配されたやり方、奥付に記載される情報がすべて追い込みで印刷される、一昔前の中央公論社の谷崎の著作を思い出させるやり方、これらも著者好みなのかもしれない。


白くて瀟洒な装丁はとても好ましいのだが、つい読書に熱が入って指に力が入ると、白いカバーに指の脂がついて黒っぽくなってしまうのが難点。これはたんに私の手が汚いためなのか。それはともかく、部屋の中から、ゴミ箱に捨てられずに放置されていた新刊書店でかけてもらう紙カバーをあわてて探し出し、本書を包んでから、読書を再開した。もちろん読み終えたいまは、その包みを外している。