“堀江好み”の思想

バン・マリーへの手紙

二日連続朝日新聞の記事から書き起こすことになる。5月30日付朝刊掲載「文芸時評」のなかで、加藤典洋さんが、堀江敏幸さんの新作小説『めぐらし屋』*1を(毎日新聞社)取り上げ、「近年これほど文学臭のない、繊細で潔癖な小説は読んだ記憶がない」と評している。
賛辞なのか嫌味なのか、いまだこの新刊を手に入れられないでいるわたしには見当がつかない。いつも書くことだが、どうしてこうも身近な書店で見あたらないのだろう。もっとも身近な大学生協書籍部が入れてくれない。
なぜこう断言できるかと言えば、最近ネットで在庫検索サービスが開始されたからで、それで検索すると、駒場店には入っているようだが、本郷店にはない。「文学臭のない繊細で潔癖な小説」は若者にこそ読まれるべきで、本郷に蠢いているような輩には必要ないとでも言いたげだ。
ほぼ同時に刊行された散文集『バン・マリーへの手紙』*2岩波書店)は新刊棚の一番上の、背の高い人間しか手が届かない場所に2冊も(!?)入り、そのうち1冊はわたしが買ったもののもう1冊はその後数日そのままだったのが悲しい。
とはいえ新潮文庫で文庫化された『いつか王子駅で』は、その月の新刊文庫平積のなかでけっこう早く少なくなっていたし、『バン・マリーへの手紙』が差し込まれた新刊棚のその場所に、その十数日前から、新刊を予告するかのように堀江さんの旧著『おぱらばん』と『魔法の石板』2冊がなぜか陳列されていたという不思議な現象を目撃していたので、いったいこの書籍部と堀江本の相性はいいのか悪いのか、さっぱりわからない。
『めぐらし屋』はいずれ買って読んでからでいいとして、まずは『バン・マリーへの手紙』だ。バン・マリーとは、フランス語で湯煎をこう言うのだという。直火にかけず間接的にものを温める方法としての湯煎。

情報の分析や技術の習得のように白黒が明瞭になるのですら、肝心かなめのところには零と一の組み合わせでない湯煎的な一帯を設けるべきだと思うからだ。(11頁)
意志的な、積極的な行為であることはたしかでも、そこに浸されていた時間が、あたたかさが、変化の過程が原則として不可視のままになり、生まれ出てきた結果を見ないかぎりなにもわからなくなるような装置を身体のなかにつくってやらなければならない。(同上)
左か右か、思考や判断のブレをはっきりと指し示さずに曖昧な領域にとどまること。露骨な表出を避け、間接的にかつ隠匿的でありながら、実際には決して歩みを止めていないつつましやかで強靱な態度表明。
こんな境界領域的な思想を差し出されると、堀江作品の愛読者としては、「回送電車」や「一階でも二階でもない夜」といった、これまでの散文作品集に付けられた書名にあらわされたタームを思い出さないわけにはゆかない。
『回送電車』における特急でも準急でも各駅でもない幻の電車回送電車的な身の処し方、『一階でも二階でもない夜』における一階でも二階でもない、でも基準の置き方によって一階にも二階にも見える「詐術」的な存在としての散文作品。
ことほどさように湯煎=バン・マリーは、いかにも“堀江好み”の境界領域的なタームなのであった。いま書棚から『回送電車』*3と『一階でも二階でもない夜』*4(ともに中央公論新社、→旧読前読後2001/6/2条2004/6/11条)を書棚の“堀江コーナー”から取り出し、3冊を並べてみる。
過去の読書記録をたどれば、『回送電車』が2001年の6月、『一階でも二階でもない夜』が2004年の6月、そして本書『バン・マリーへの手紙』が2007年の6月と、奇しくもきっちり3年間隔で6月に読み終えている奇蹟に感嘆した。つぎに“堀江好み”の思想を享受するのは、2010年6月ということになるのだろうか。
『めぐらし屋』を「文学臭のない繊細で潔癖な小説」とした加藤典洋さんの指摘を借りれば、さしずめこの『バン・マリーへの手紙』は、身辺雑記に限りなく近い日常生活の一齣にこれほど文学臭をまとわらせ昇華させた文章はこれまで読んだことがない、と表現できようか。
「文学臭」と言うのはちょっと癖のある単語だから次のように言い換えよう。現実の堀江敏幸という文人が体験した日常的なあれこれに、自己韜晦的で偽悪的なまでのユーモアをまとわらせることでフィクショナルに対象化され、小説ともエッセイともつかない、すぐれて“堀江好み”の散文作品ができあがったという印象。結局こうした手法こそ湯煎的と言うべきなのだろう。
学食で一番安い肉なしカレーの半分を失った悲しい経験が崇高な哲学的言語遊戯と重なる「十三日の金曜日ふたたび」や、汗と涙が滲む個人輸入の悲しい顛末「月が出ていた」、流しの石焼きいも屋を追いかけたスラップスティックな一篇「落下物について」、挟み挟まれる自分の発見「挟むことの剣術」などがそのような「湯煎的」手法で書かれた体験談である。
とりわけ「月が出ていた」の、人がおらず倉庫しか並んでいないような大都市の乾いた雰囲気を舞台にして、結末に向かって息せき切ってかけだすようなリズムで描かれた作品を読んでいると、『いつか王子駅で』や芥川賞受賞作品集『熊の敷石』に収められた一篇「城址にて」のあの呼吸を思い出し、著者とともに走り、涙し、汗をかいたような気分になったのである。