触覚と読書

回送電車

まもなく堀江敏幸さんの新刊『一階でも二階でもない夜』中央公論新社から発売されるという情報を得るや、目はわが書棚の“堀江コーナー”に移り、手はそのなかの一冊、同じ版元からかつて出た『回送電車』*1を抜き取っていた。
「評論や小説やエッセイ等の諸領域を横断する散文の呼吸」を自らの創作の理想型と謳った「回送電車主義宣言」が冒頭に配された同書は、私が初めて堀江さんの作品世界に触れた記念すべき書物なのであった。新著は『回送電車』の呼吸を受けつぐ内容ということで、いまから期待に胸をふくらませている。
書棚から取り出した『回送電車』をすぐもとに戻すのももったいない気がして、そのまま再読することにした。この間何度か拾い読みのかたちで再読することはあったけれど、通読するのは新刊購入時以来だから、3年ぶりのことになる。
堀江さんの様々な作品に接した現在、あらためて本書を読み返すと、初読のおりには素通りしてしまっていた箇所が気になったり、その後に刊行された作品の萌芽のようなもの*2が見られたりと、やはり多くの発見があるものである。
『吉江喬松全集』入手の経緯を綴った「耳鳴り」という一文のなかにある「衝動買いを名目にしながら中身をほとんど確かめず、表紙の感触だけで古本を手にする悪癖」という一節を目にしたとき、ちょうど直前に読んだばかりの堀江さんの他の文章を思い出した。岩波文庫編集部が文庫フェアにあわせて編んでいる小冊子『読書のすすめ 第9集』に収録されている「門と壁のあいだで汗ばむこと―『カフカ短篇集』」というエッセイである。副題にあるとおり、これは池内紀さんの編訳にかかる『カフカ短篇集』の、わけても珠玉の名篇「掟の門」を論じた内容なのだが、その前置きの部分が素晴らしく、震えるような感動をおぼえたのである。
このなかで堀江さんは、本を読んでいて手に汗をかくようなときの本への配慮とか、汗と本のカバーの相性について述べ、岩波文庫の表紙の話に入ってゆく。

たとえば、いまはもう数が少なくなってしまった、あの肌触りのあたたかいクロース装単行本は、汗を吸い取る。右利きの私は、左のてのひらで背を支えるように持ち、頁を利き手で繰っていくのだが、接触部分がひろいのでそのぶん汚れも激しい。しかし、そんなふうにしてできた黒染みがまた、身体と結びついた読書の痕跡となって愛おしく残る。上製本で、汚れ防止のコート処理がほどこされていない艶消しのカヴァーが巻かれたものは、クロース装と同様、水分を吸い取り、蛍光灯の光にまばゆく照り返る一般的な表紙の場合は水分をはじくから、汗でぬめる。私のこのぬるりとした感触がなぜか気になるたちで、どれほど美しい絵で飾られていても、読むときには帯といっしょにカヴァーはひとまず取り除くことが多い。本体の表紙はたいてい厚紙だから、汗はやはりじんわり浸みていって、不快にぬめることはない。(47頁)
私の場合「ぬるりとした感触」はおろか、汗が厚紙に浸みることすら忌避する。まれに堀江さんと同様カバーを取り除いて読むこともあるけれど、上のような理由で、たいていカバーの上にもう一つ、書店でかけられた紙カバーを付けて読むことが多い。
基本的に私は“書店のカバー不要”派だが、東京堂教文館だけ拒まないようにしている。これらは帰宅後いったん取り外して書棚の隙間に挟んでおき、こうしたときに利用するのである。
文庫本でも、つきあい方はおなじである。左手の親指で頁を押さえ、残りの指の腹が背の部分に当たるように軽くつかむ。右手はやや丸め気味にして親指だけ頁にかけ、あとの指の腹で表紙をそっと支える。接触面が小さいぶん、汗で滑るというよりむしろかすかに粘る感じだろうか。そのくらいなら我慢できなくもないのに、カヴァーはやはり取り置いて、読み終えてから直す。(48頁)
こんなくだりを読めば、『読書のすすめ 第9集』をつかんでいるわが左手(堀江さんと同じく右利きなので左手で本を持つ)の指の配置を気にせずにはいられなくなる。書かれてあるとおり堀江風に持ち直しページをめくる仕草を真似る。
自分の場合を見直せば、左手親指で頁を押さえるものの、残りの指はすべて背の部分にあるわけでなく、人差し指が裏表紙の真ん中辺、ちょうど文庫本の左側が丸まった一番の窪みにあたる部分に位置し、薬指と小指は背を行きすぎて表表紙の部分を押さえるかたちになっている。
だから私の場合、裏表紙の真ん中と表表紙の背に近い部分に指の汚れ、汗染みができることが多い。本を読むときの本の持ち方などを観察するとは想像だにしなかった。
ほかにもこの文章には、岩波文庫の帯を「適度な幅の帯の、駄菓子屋の煎餅そっくりな色合い」としたり、岩波文庫のカヴァーを剥いで濃い目のベージュの肌を晒させ、背をこちらにむけて素焼きのレンガみたいにずらりとならべてみると」といった本好きをくすぐらないではおかない表現があって、すこぶる刺激的なのだった。
先の「耳鳴り」を思い起こせば、堀江さんにとっては、本を視覚で楽しむだけでなく、触覚でも楽しむ、さらに言えば、触覚の第一印象がその本を選び取るかどうか、楽しめるかどうかを決定する重要なポイントとなっているとおぼしいのである。
ところで『回送電車』初読のおり、私は同書所収の「クレーンの消えた光景」の一節「本づくりに関しては可能なかぎり好みを貫きたい」に着目して、自著の造本に積極的に関わろうとする堀江さんの志向を指摘した(旧読前読後2001/6/2条)。
そのときは素通りしてしまったが、今回同じ文章のなかで新たに気づいた箇所があった。処女作『郊外へ』が白水uブックスに入るさい、表紙の絵を長谷川利行にするか松本竣介にするか最後まで迷い、結局洲之内コレクションにある松本竣介の「白い建物」に決したというくだりだ。
「えっ」と思って“堀江コーナー”からくだんの白水uブックス版『郊外へ』*3を取り出した。この版で読んだはずなのにまったく絵のことは気にしていなかったからだ。見るとオレンジ色の帯に絵の半分が覆われてしまっており、堀江さんの深慮もあまり報われない恰好になっている。もとより、鈍感な私は、帯がなくとも松本竣介の絵に気づかなかったに違いない。
白水uブックス版で一読のあと、同じ白水社から出た元版*4ブックオフで安く入手したので、これで再読しようとしたことがある。いま見てみると最初の一篇「レミントン・ポータブル」を読んだきりで、二つ目の「空のゆるやかな接近」のところに紙栞が挟まった状態だった。今回「クレーンの消えた光景」を読んで、元版でなく、今一度白水uブックス版で『郊外へ』を読み返そうかという気持ちになっている。
堀江さんの本を読んでいると、家人が外出して一人家の中で留守番をしている初夏の日曜日の昼下がり、窓を開けて爽やかな風を入れ、ベッドに寝そべってどれ本でも読もうかといった幸福なひとときのような余裕に支配される。
続けて読んでしまうとそんな気分も稀薄化されてしまうという懸念もあるが、それでも今の季節、せわしなく本業に追われている今日このごろ、無性に堀江さんの世界が恋しくなっているのだった。

*1:ISBN:4120031454

*2:『魔法の石板』で論じられたジョルジュ・ペロスの話など。

*3:ISBN:4560073473

*4:ISBN:4560045852