ROAD TO THE DEEP NORTH

ちはやふる奥の細道

この四月から五月にかけ、小林信彦さんの新刊をたてつづけに読んだことによって(→4/24条5/8条5/17条)、気になった小林さんの小説があった。ちはやふる奥の細道*1新潮文庫)である。先日立ち寄ったたなべ書店で入手できたのでさっそく読んだ。結局これまた小林本読書の影響ということになる。
この本を読む気を起こさせたエッセイは何だったのか、三冊も続けて読んだためどの本だったかすっかり忘れており、読後この三冊をめくり返していたところ、最初の『定年なし、打つ手なし』朝日新聞社)所収の「なぜ〈笑い〉にこだわるか」という一文であったことが判明した。
このなかで小林さんは、小説における〈笑い〉の仕掛けについて、自作を例にあげて説明している。『ちはやふる奥の細道』のあらすじについては、著者以上のまとめはないと思われるので、以下に引用する。

ジャパノロジストを自称するアメリカ人が、〈芭蕉=忍者説〉にもとづく〈日本小説〉を書くというものです。〈日本小説〉のプロットはパルプ・マガジンのフィクションそのものですが、『奥の細道』の中の数々の句が各シチュエーションに奇妙にもはまってしまう。それなりにつじつまが合ってしまう。その合い方が、わが古典落語の「千早振る」に似ているので、『ちはやふる奥の細道』と名づけたのです。*2(134頁)
このようにまとめたうえで、本作品のポイントを「きわめて通俗的な時代小説のプロットを作る」「誰にでもわかるギャグ(捨てギャグ)を入れてゆく」「一般日本人にはわからない固有名詞とギャグでぼくが遊ぶ」であるとし、執筆の隠された意図を以下のように告白している。
ちはやふる奥の細道』(これこそ大満足感がありました)でぼくがやろうとしたのは、不遜にきこえるかも知れませんが、古典落語の最良の部分(つまりは五代目志ん生の世界)を乗り越えることです。ま、なんとか、うまくいったのではないかと思っていたのですが、最近は(どうかな)と考え直しています。(136頁)
本書はウィリアム・C・フラナガンという「ジャパノロジスト」が書いた『ROAD TO THE DEEP NORTH』を小林さんが翻訳したというスタイルをとる。面白いのは、執筆当時この『ROAD TO THE DEEP NORTH』の存在をまともに信じてフラナガンの誤った日本理解をあげつらった批評が出されたことで、これは全文が文庫版巻末の「作者ノート」に引用されている。小林さんの意図が理解されなかった反面、見事に陥穽にはまったとも言えるのだろう。
あらすじは先に引用したとおりなのだが、たとえばフラナガン「かき喰へば鐘が鳴るなり法隆寺の句を「牡蠣を食べていたら法隆寺の鐘が鳴った。ああ、今年も、もう、Rのつく月の季節になったのだなあ!」と英訳する。笑えるではないか。
芭蕉は忍者だったという立場に立つので、「古池や蛙とびこむ水の音」には、忍術のひとつ「水ぐも」の術を練習して失敗し池に沈んでしまったという、忍者の子としてのコンプレックス、精神的外傷(トラウマティズム)の叫びがひそんでいると分析し、他の句からもこうした忍者としてのトラウマを読み取ることができると指摘する。
たとえば「花の雲鐘は上野か浅草か」では、鐘の音を聴いたけれどもそれが上野からなのか浅草からなのかとっさに判断する才能に欠けていることを思い悩んだ句であり、「さまざまの事おもひ出す桜かな」は、「桜を見ただけで、かつて自分が鐘の方角の見当がつけられなかった記憶に苦しむようになってしまっている」と信じ込む。
さらに「春の夜は桜に明けて仕舞ひけり」から〈鐘の音ノイローゼ〉と診断して桜そのものをも憎むようになっているとし、「木のもとは汁も膾も桜かな」に至っては「完全に病的な句」で、「スープの表面にも、ツナサラダの上にも桜の花びらが見えるという幻覚を詠んだもの」と解釈されてしまう。読みながら大笑いである。
作品中にちりばめられた“捨てギャグ”について一々指摘していては切りがなくなる。
「きわめて通俗的な時代小説のプロット」というのは、水戸黄門芭蕉奥の細道の旅に介在させて佐渡の金山の坑道のなかで対決させるという荒唐無稽な筋立てをあげればいいだろう。こうしたスラップスティック風の味わいは、この方面の読書経験が乏しい私の頭では筒井康隆さんしか思い出せない。
「一般日本人にはわからない固有名詞とギャグでぼくが遊ぶ」というポイントついて、芭蕉曾良のコンビをフラナガンが外国のコンビに見立てて説明するくだり(「第5章 嵐のまえ」)では、アステア&ロジャース(私は知らない)に始まり、延々4ページにまたがり外国人コンビの名前が並べ立てられる。この過剰さはやはり筒井さんを思い出さずにはいられなかった。
筒井さんの作品との共通性は、作者にも、解説「ギャグによる叙事詩」を書いた色川武大さんにも認識されているとおぼしい。色川さんは、小林信彦とか、筒井康隆とかの作品を見ていると、折り折りに、あ、これは自分がやってみたかったことなんだ、などと小膝を打ったり口惜しく思ったりすることがあるが、なに、あとからそう思うのは誰だってできる」と書いている。
近年筋らしい筋のない枯れた味わいの小説を好んで読むようになってはきたものの、小説を読んで、「いやあ、やっぱり小説っていうのは楽しいなあ」としみじみ思うのは、たいていこうした凝りに凝って仕組まれた作品を読んでいるときであって、やはり筒井康隆小林信彦といったあたり(くわえて丸谷才一井上ひさし)がそうした書き手の第一として思い浮かぶのである。

*1:ISBN:4101158150/書名の「ちはやふる」は正確には角書き風に割書になっている。

*2:原文には「奇妙にも」「つじつま」二箇所に傍点あり。