巧さ変わらず

臨場

横山秀夫さんの新作『臨場』*1(光文社)を読み終えた。横山さんの作品を読むのは、今年正月に読んだ半落ち以来(→1/2条)。新作を新作という状態のときに読んだのは初めてかもしれない。とはいえ新刊書店で買い求めたわけではないから偉そうに胸を張れない。
今回の『臨場』は刊行時からテーマが気になり、何度か新刊書店で手にとって買おうかというところまでいったのだが、その都度財布との関係で断念せざるをえなかった。
気になるというのは、まず連作短篇集であること。次に、「検視官」という職務の人間に光をあてていること。
連作好きの私にはその体裁に惹かれたうえ、これまでのミステリ・警察小説の読書体験からは聞いたことがない職務の人間が主人公であることに激しく心を動かされた。近年横山さんの作品や「踊る大捜査線」などでずいぶん警察内部の組織構造や職務のあり方に通じるようになったけれど、「検視官」という立場がどんな人なのか、まずそうしたところから読者を惹きつける横山さんの巧みさ。だいいちいま「けんしかん」と打ち込んで変換されるのは「検死官」「検屍官」ふた通りのみ。推測すれば「検視官」と同義(あるいは「検視官」のほうが広義か)だと思われるのだが、かくも一般的でない言葉であることがわかろうというものである。
さて検視官とは、鑑識とともに真っ先に事件現場に「臨場」し、「事件現場に臨み初動捜査にあたる」役職で、主として鑑識畑の人間がこの仕事に就くらしい。現場を事細かに観察し死体を検視したうえで、自殺・他殺を判断したり手がかりを見いだして捜査の方向性に示唆を与えるという重要な任務を行なう。ランクとしては都道府県警察本部の課長級とおぼしい。
本書の主人公倉石義男はL県警本部捜査一課の検視官で、鋭い観察と独特の視点で数々の事件解決の鍵を提示し、このポストにおいては余人にかえがたいという意味で「終身検視官」という異名を与えられている人物である。その方法、考え方には警察内部でも崇拝者が多く、彼の下で仕事を行ない勉強することを「学校」と呼び彼を「校長」と称するほど。倉石自身は上下関係にとらわれない物言いで組織から孤立していることもあり、上の人間はこうした風潮を苦々しく見ている。
このように本書もまた横山さんの独壇場である「組織と個人」の問題をテーマのひとつに据えているのだが、実際読むとこのテーマは本書のなかではあまり大きくない。
倉石という人物が主人公であるとはいっても、倉石の行動に視点を据えた作品もあれば、別の同僚の視点で物語が進行し、倉石はまるで「声だけの出演」のごとく間接的に登場しながら物語の流れを大きく左右する場合もある。
倉石の検視哲学は「現場七割。死体三割」で、他人が目をつけないようなところまで目を配った細かな現場の観察により、大方の人間が予想していた事件の筋とはまったく異なる見方を呈示して周囲を驚かせる。倉石が他者にない見方を持っているというのは、たとえばこんな点だ。

倉石は「生き物」の生態に滅法強い。動物、植物、魚、鳥……。その知識のすべてを検視に生かす。死体のある部屋の状態を、鉢植えの花や籠の中の鳥の囀りで読む。(「餞」)
ことほどさように本書収録の八篇いずれもが植物や動物、虫などの生態を観察することが事件の解決と少なからず絡んでいる。こんな「小道具」の使い方が絶妙で、先に指摘した融通無碍な視点の据え方と相まって、「やっぱりうまいなあ」と感嘆の声をあげてしまうのだった。
いまひとつ本書の特徴は、倉石というキャラクターが発揮する「情」だろう。直截にではなく、婉曲的に、しかしじわじわと相手に染みこむ倉石の熱い情が読む者をも熱くさせる。鑑識における最先端の科学的知識と倉石の情とが絡み合ってどんでん返しの妙味を発揮する「真夜中の調書」が抜けて面白かった。
ところで本書の銀色のカバーからただよってくる強烈な「シンナー臭」のようなにおいは何なのだろう。私の持っている本が古本ゆえではなく、たしか書店に並ぶ新刊も同じではなかっただろうか。銀色の表紙のためなのか、そこに浮き上がる形で横に貼られている「立入禁止 KEEP OUT」の黄色いラインのせいなのか。これからこのにおいを嗅ぐと、『臨場』を思い出すことになるかもしれない。