署名本と活版と初出一覧と

一階でも二階でもない夜

堀江敏幸さんの新刊散文集『一階でも二階でもない夜』*1中央公論新社)を読み終えてしまった。前の日に入手しホクホクしながらページをめくりつつ、活字を追う目のスピードを早めようとはやる心を抑えて、週末の愉しみにゆっくり読んでいこうと決めたはずなのに、土日になる前に読み終えてしまうなんて。
サブタイトルに「回送電車Ⅱ」(これだけ抜き書きすると何だかテレビゲームの名前のようだ)とあるように、2001年5月に同じ版元から出た散文集『回送電車』*2に続く散文集となっている。
カバー装幀も堀江さん言うところの「艶消しのカヴァー」の白い瀟洒なデザインで、前冊同様読んでいると指の汗と脂でカバーを汚しそうなもの。慌てて、先ごろ読み終えた本に掛けられたままだった東京堂の紙カバーを外し本書に掛けかえた。堀江さんの作法にしたがい、元々のカバーを外して裸で読めばいいのだが、私はそうはしない。カバーに配されている絵は北園克衛の作品で、北園克衛については本書の中に「九ポイントは遠すぎる―北園克衛頌」というハヤカワミステリ文庫の装画の思い出から北園作品に触れた一文が収められている。
さて、一読し前冊と比べて雑然たる印象を持った。本書収録の文章は芥川賞を受賞して以後のものがほとんどである。寄稿依頼が増加して様々な媒体に発表された文章が一冊の本にまとめられたからだろう。何が入っているか見当もつかないような、雑多なものが無造作に詰め込まれた小箱の中の物をひとつひとつ取り出して中身を確かめていくような喜びがある。
様々なテーマ、また長短各種あれども、やはり堀江さん偏愛のアイテムが並び、味わい深い文章は一貫している。なかには比較長めの、冒頭の「静かの海」のように、まるで堀江さんの小説作品を思い出させるような緩急抜群の散文や、跨線橋のある駅舎―C線上のマッセナという『郊外へ』補遺とでも名づけたい散文も含まれ、それぞれ愉しんだ。
悦ちゃん』を取り上げ獅子文六作品の復活を高らかに叫んだ「湿り気のない感傷」に強くうなずき、宇佐見英治の追悼文として書かれた「存在の明るみに向かって」を読み、堀江敏幸山田稔という系譜に連なるとおぼしい宇佐見英治という書き手が気になりだす。
「始末書の書き方」を読み、『いつか王子駅で』は当初第一章分だけの単発の短篇として発表されたのだけれど、編集者の要望で連載になったという経緯を知った。わが体はまたしても書棚の“堀江コーナー”に惹き寄せられ、手が棚に伸びて同書を抜き出す。第一章を確認するとたしかにこれで終わってもいいような幕切れだ。いったんわが手を離れたはずの作品に後日譚を書き加える作業の果てに『いつか王子駅で』が成ったと知ると、著者の苦労がしのばれる。
本書はいずれまた何度も読みその都度新しい感想を抱くことになるだろう。初読のいま、気になったキーワードは二つあって、それは「署名本」と「活版」である。
堀江さんは自著に署名することは「苦行」と書いておられるが(「十三年」)、好きな作家の署名本を集めることは大好きらしい。古書店は驢馬に乗って」では、小島政二郎への献辞の入った島村利正『残菊抄』を見つけ、既所持にもかかわらず、しかもまだ値段が付けられていなかったにもかかわらず店主に懇願し「強引に譲って」もらったというエピソードが語られ、「救われた声」では、ジャン・カスーの書簡集の、その書簡を預かった女友達に宛てた献辞入りの本を持っていると記されている。
署名といえば、私は2002年1月17日に東京日仏学院で開催された堀江敏幸訳『パリの廃墟』刊行記念講演会を聴きに行き、その会場で『パリの廃墟』ばかりか、出たばかりの短篇集ゼラニウム*3朝日新聞社)も持参しそれにもサインをもらうという「苦行」を課してしまったことがある。
ゼラニウム』は活版で、これは堀江さんの好みに違いないと推測した私は、サインを頂戴するさい、そのむねを堀江さんご本人にうかがったところ、果たして「ぼくの希望です」というはっきりした答えをいただいたことを喜んだ(旧読前読後2002/1/17条参照)。
今度の新著のなかに「「押し」のある活字」という一文が収められており、このなかで堀江さんの活版に対する偏愛が告白されている。かつて上梓した本に「厚手の紙にぐっと押しつけたような感触の残る活字で組んだ例」があり(『子午線を求めて』だろう)、「それをとても好もしく思っていたので、いちばん新しい作品集にも、版元に無理を言って、おなじ印刷会社の、同じ書体を指定してもらった」という。この作品集とは『ゼラニウム』のことに違いない。というのも初出一覧を見るとこの文章は2002年1月9日の『読売新聞』夕刊に発表されたとあるからだ。
先の堀江発言の裏付けがとれたわけだが、逆に言えば、『読売新聞』のこの文章を目にしていれば、上のような疑問を発する必要はなかったのである。「こいつ『読売新聞』の文章を読んでいないな」と思われたかもしれない反面、あのとき「ぼくの希望です」と言ってニッコリされた顔を思い浮かべると、「いいところに気づいてくれた」と心中拍手をしていたはずと好意的に解釈しておきたい。
ちなみに「「押し」のある活字」では、松田哲夫さんの『印刷に恋して』に触れ、『ゼラニウム』の活版は、正確には昔ながらのいわゆる「紙型鉛版」ではなく樹脂版という現在一般的な活版の印刷方式が採られていると述べられている。
先日私は「〈書評〉のメルマガ」で、自分は本文より先にあとがきから読む“あとがき派”ではあるけれど、それ以上に初出一覧から目を通す“初出一覧派”であることを明かしてしまった。本書は種々雑多な媒体に書かれたものを寄せ集めた文章からできており、私のような“初出一覧派”にはこたえられない充実した初出一覧が巻末に付いている。一篇読んでは、その文章はいつ、どこに発表されたのか、その都度初出一覧にあたって確認してから次に進むという変わった読み方をしていたのだった。
そんな読み方をしていたゆえか、初出一覧の誤り二箇所を発見してしまった。「ペレおじさん」の初出に年記が抜けていることと、「町へ行くこと」「消えゆく空間への愛」の排列が本文とは逆になっていること。私以外で気づく人はほとんどいないかもしれない。再版で直っていればいいな。