非日常の浅草の夜は

如何なる星の下に

非日常的空間における日常的光景というのは、平凡な日常生活を送っている人間から見れば、自分たちの生活の延長線上にある日常的光景として親和性をもって捉えられるのか、あるいは、やはり非日常は非日常のままで珍しがられるのか。
と、こんな小難しいことを考えたのは、高見順『如何なる星の下に』新潮文庫)を読んだからだった。今度の週末ラピュタ阿佐ヶ谷に同書を原作とした同名の映画(豊田四郎監督)を観に行く予定でおり、これをいいきっかけに、昨年末に東京駅地下街の八重洲古書館で入手していた原作の文庫本を読んだのである。
本書は昭和14年に書かれた(翌15年刊行)。日中戦争が泥沼化していたとはいえ、いまだアメリカとの戦争に突入する前のことであり、なお活気を保つ浅草の町が舞台である。牛めしお好み焼きなど読んでいて思わず唾液が出そうな食べ物屋の描写を読むと、戦争末期の状況とは異なることがわかるし、浅草の踊り子たちが中国に慰問に向かうにあたっても、悲愴感はまるで感じられない。
物語は、大森に自宅を持ちながら浅草にも仕事場として部屋を借り、浅草を根城にしている作家倉橋と、彼が立ち寄る「風流お好み焼き屋」の「惚太郎」*1にときどき手伝いに来る若い女性美佐子との関係を軸に、倉橋がひそかに思いを寄せる踊り子小橋雅子や、彼女を倉橋に紹介した友人朝野、倉橋の別れた妻、彼女と結婚した男、また彼を倉橋の別れた妻に奪われ悲嘆のはてに病死した美佐子の妹、美佐子の夫但馬、その他浅草に巣くう芸人たちが織りなす人情小説といったおもむき。
中年男の若い女に対する痴情をうまく描いたと書きたいところだが、主人公のモデルとなった作者自身、当時まだ30歳を過ぎたばかり。年齢的にはるかに上回っている私としては、「中年」の語を取り払いたい気分である。
もっとも、倉橋と美佐子がどうなったとか、倉橋の片思いの恋はどうなったとか、そうした側面は物語の終わりとともに決着がついたかといえば、まったく進展せぬまま宙吊りにされている。要するに人間関係は二の次で、彼ら情痴的な人間を口実として、浅草という町の魅力を高見順は書きたかったのだと考えたほうが納得がゆく。
いまではJRA場外馬券売場になっている場所にあった瓢箪池や、その池畔で冬でも氷をまぶして売られていた愛玉只(愛玉子)の屋台、惚太郎の店構え、ひさご通りや国際通り合羽橋道具街の風景、廃墟となっている花やしき、さらに供出前の九代目團十郎「暫」銅像、その先にある浅草寺僧侶たちの「モダンな住い」*2に至るまで、愛着をもって写しとられた点描のごとき浅草の戦前風景。読んでいると雑踏の猥雑な雰囲気や活気を運んでくれるかのようだった。
ところで冒頭に述べた非日常のなかの日常というのは、主人公が遭遇した雷門付近での夜火事のエピソードについて感じたもの。
暖房器具もなく手がかじかんで本も読めないような寒い冬の夜更け、外が騒がしいと思ったら火事だった。主人公は不謹慎にも「いかにも暖かそうな火が挙っている」と感じて(このあたりいかにも高見順的発想だ)がばと跳ね起き、いつの間にか外に出ていた。野次馬に混ざってしばらくその火事を眺め、ふと気がついてあたりを見まわすと、こんな光景が目に飛び込んできた。

私のまわりは女ばかりで、齢こそいろいろだがいずれも食いもの屋のねえさんたちと覚しいのが、寝入りばなを起されてそのまま飛び出て来たらしい、しどけない姿である。え? といった気持で、うしろを振り向くと、「ちんや」の、鎧扉を半開きにしたいくつかの窓にも、昼間見るといずれもいきのいい肉屋のねえさんたちが、化粧をすっかり落して、こっちが恥ずかしくなるような、うすみっともない、ひどくいきの悪い黄色い顔に成ったのを、累々と重ねて突き出していて、そうなると一種の壮観で何やら凄絶な感じであった。(134頁)
主人公は昼間と違った夜の浅草の「日常的光景」を目の当たりにし、「何か浅草に関する重大な発見をしたような、少なからず厳粛な気持」になる。賑わう浅草の数多ある食べ物屋で働く女性たちは、夜、その家屋の「どこか狭い部屋にそれぞれいっぱいつまって寝ている」ということに「妖しく異様な感じ」を受けたのである。高見順は浅草に関するこんな「重大な発見」をこそ書きたかったのかもしれない。
主人公は浅草に起居しているのだから、わたしたちにあるようなお上りさん的浅草観を持っているわけではない。でも、彼の眼においてすら、火事という突発事によって非日常のベールが剥がされた果てにちらりとのぞいた日常のはずの浅草の光景もまた、もうひとつの非日常として映った。浅草には日常をも非日常と化す魔力が備わっており、そうした非日常と日常の落差に「厳粛」という名のスロープが渡されている。

*1:モデルとなったお好み焼き屋は染太郎という名前で浅草に実在。

*2:これについては植田実『集合住宅物語』(みすず書房)参照。