好きな文章でリラックス

傑作の条件

本好きの人であれば、文章が大好きという書き手をあげろと言われるとたちどころに何人かの名前が口をついて出てくるに違いない。私の場合、そうした一人として向井敏さんの名前をあげたい。
向井さんの文章は香気高く、言い回しが絶妙で、読んでいるとその素晴らしさにしばし酔い心地になる。もちろんそうした文章にふさわしい内容を兼ね備えていることは言うまでもなく、書評文を読んでいると取り上げられた本を読みたくなるのである。
そんなこともあって古本屋で向井さんの本に出会うと取りあえず買っておくようにしているし、ブックオフなどに行くと、単行本の「む」の棚に無意識に足が向く。といいながら、必ずしも買った本をことごとく読んでいるわけではない。毎度のごとく私の癖である読み惜しみもあるけれど、向井さんが書評で取り上げる本は恐ろしく広い分野にわたっているし、私も若干親しんでいるミステリの分野でもほとんど私の好みと重ならないため、読むのを躊躇してしまうのである。
しかしときどき向井さんの香気高い文章を味わいたくなることがある。『傑作の条件』*1(文春文庫)を積ん読の山から探し出して読み出したのも、そんな心もちにあったからなのだった。
本書は初出一覧がないため初出の媒体がわからないのが難点だが、純然たる書評集というわけでなく、「読書エッセイ」とでも呼ぶべき、書評とエッセイの中間にあるような文章が半分以上を占めている。近づきやすかったのもこのためだ。

ふつう、書評といえば、新刊の本を選ぶための目安として扱われ、その文章の芸や工夫を云々されることはめったにない。新刊書の出来不出来を点数で表示するだけで用は足りる、むしろそのほうが手っとり早いと見られているふしさえあるようです。そうした世間の習いにいくらかでも異をたててみたいという思惑が、筆をとるたび、私のなかで動いて、なにかと論法に工夫を強い、たぶんそのことが、エッセイか書評か、自分でも区別のつけにくい文章を生むことになったものとみえます。(「後記」)
そういうわけで、本書には「文章の芸」がいかんなく発揮された読書エッセイがたくさん収められ、読んでいて満ち足りた気分にさせられた。「文章の芸」によって読みたくなった本は多いが、たとえばこんな一文。
文庫といえば、かつては名著主義、精選主義を本筋としていたものだが、それが今ではすっかり影が薄くなり、といってそれにかわる確たる名分があるというのでもなく、なにやらアナーキーな様相をさえ呈している。
こうなってみると、曲りなりにも名著主義を通している岩波文庫がかえって新鮮に見えてくるのは、これは人情の自然というものであろう。岩波出版物にまとわりついていた古風な権威主義の臭みが、年来の文庫戦争のせいで気にならない程度に洗い流されてしまっているということもあるかもしれない。(「知られざる傑作」)
これは岩波文庫に入っている柴田宵曲の『古句を観る』を取り上げたエッセイの冒頭部分なのだが、難しい単語や言い回しを使うわけではなく、それでいて(いや、それだからこそ)格調が高いこの文章は何なのだろう。
端正な行文から不思議にただよう芳醇な香りにすっかり魅せられ、このあと紹介される『古句を観る』も向井さんが言うように面白い作品に違いないと確信するのである。
昨日触れた堀江敏幸さんの文章といい、ときどき自分の好きな文章をこうして味わうことは、とてつもない精神的余裕をわが身にもたらしてくれるもののようだ。