谷崎熱が冷めぬうち

細雪』をはじめて読んで、ひさしぶりに谷崎潤一郎の作品世界を堪能した。うまく説明できないが、やはりわたしは、谷崎流の“筋のある”小説が好みであるらしい。
せっかく谷崎作品に心動かされているのだから、この勢いで読んでしまおうと、次に手に取ったのは、長篇神と人との間だった。中公文庫『潤一郎ラビリンス12 神と人との間で読むことができる。
大正12年関東大震災をはさんで『婦人公論』に連載された作品なので、全集収録作品を順番どおりに読み進めていた頃、当然この作品にも突き当たったはずである。けれども、この時期あたりの谷崎作品が好きにもかかわらず、飛ばしてしまって未読のままだった。
読む気が起きなかった理由は、それがいわゆる「小田原事件」、谷崎夫人千代をめぐる谷崎と佐藤春夫の確執を描いた小説だったからだ。谷崎といえば幻想怪奇、被虐的小説に面白味を感じていたから、私小説臭をただよわせる本作に食指が動かなかったのである。
といっても、愛読している谷崎論のひとつ、河野多恵子さんの『谷崎文学の愉しみ』では、『神と人との間』を大きく取り上げたうえ、次のように評しており、ずっと気にはなっていたのだ。

この恋争いについては、谷崎と佐藤の作品や手記や談話、三者連名で離婚と再婚を一度に知らせた時の挨拶状、彼等に近しかった人たちによって活字で発表されたり私が直接に少しばかり聞かせてもらった話などからすると、それらのうちで谷崎の『神と人との間』(38―39歳)が最も虚構を交えてありながら、最も核心が明らかに表現されているのである。その体験に基づく二人の数篇の小説中での最もすぐれた作品でもあり、そして谷崎の諸作中の傑作とまではなり得ていなくとも、充分佳作と呼ぶべき作品なのである。(78頁)
そしてとうとう、『細雪』読破の余勢を駆って、『神と人との間』を手に取り、読みはじめた。結局「谷崎は面白い」という確信は、この作品でも訂正する必要がなかった。いったん作品に入り込むと、もうやめられなくなるのである。
河野さんが「最も虚構を交えてありながら」というのは、谷崎自身をモデルとした添田、佐藤をモデルとした穂積いずれも死でもって終わるという結末だからだが、それゆえ逆に犯罪小説的雰囲気もあって楽しめる。短篇「途上」で有名な「プロバビリティの犯罪」がここでも顔を出す。犯罪小説的結末に持ちこんでしまうのは、ある意味谷崎の短所なのかもしれないが、苦笑しつつもわたしはそれが好きなのだ。
物語の視点として面白いのは、ライバル穂積の視点から書かれていることだろう。河野さんはこのことをもって「裏返しの私小説としている。友人添田に虐げられる夫人に思いを寄せ、彼の仕打ちを激しく憎みながら、夫人に会いたいばかりに添田との交友を絶たず、逆に添田に追従してしまうような矛盾したふるまいを見せる穂積。そうした卑屈さを自分でもわかっていながら、大きな決断に踏みこめない心の弱さをもつ穂積の心持ちが丁寧に描かれる。
穂積の視点でとらえられる添田のふるまいが、そのまま谷崎自身の経験にもとづいているとしたら、空恐ろしいといか言いようがない。妻への仕打ちの酷さはともかくも、そういう行為を恋敵に見せてたのしんだりする偽悪的露悪的な(おのれの)姿を、内面にも踏みこんでここまで客観的に描き切れてしまうのだから、私小説という枠をはるかに超えてしまうスケールの大きさをもっている。
さて、こうして谷崎・佐藤両者の確執について知ったからには、これまたこの勢いで、積ん読のままだった佐藤春夫の長篇『この三つのもの』に突入するにしくはない。ひさしぶりに連鎖的読書の興奮を味わい、“本読みの快楽”に対する感性を取り戻しつつある。
潤一郎ラビリンス〈12〉神と人との間 (中公文庫)谷崎文学の愉しみ (中公文庫)この三つのもの (講談社文芸文庫)