遅すぎた『細雪』読破

先だってのいわゆる“シルバー・ウィーク”では、出かける予定がまったくなかった。逆に家族が妻の実家に帰り一人東京で留守番ということになったので、この機会にこれまで読めなかった本をじっくり読もうと思い立った。選んだのは、谷崎潤一郎の大長篇細雪(中公文庫)である。
大学院生の頃、中央公論社『愛読愛蔵版谷崎潤一郎全集』の第一巻から順序どおり小説を読んでいった。谷崎全集はほぼ発表順に小説が配列されていたはずだ。もとより悉皆読みこもうというわけではなく、文庫で読める『痴人の愛』『卍』や『乱菊物語』『武州公秘話』などは割愛し、もっぱら全集でしか読めないような作品中心ではあったが*1
少しずつ読み進め、『細雪』に到達した時点で、この企てをいったん打ち切ったのではなかったか。以来20年足らず、谷崎ファンとしては、『細雪』を読みたいという気持ちを抱えていたものの、買っていたはずの文庫本が行方不明になっていたこともあり、そのままになっていた。
たまたま以前、ブックオフで中公文庫版が105円で売られていたので、ダブり承知で購入しておいた。これも買ったままリビングにほったらかして忘れていたのだが、何かの機会に本の山が崩れて『細雪』が顔を出したため、「読んでみようか」という気運が高まっていたのであった。
細雪』は、いわずとしれた美貌の四姉妹の物語。大阪船場の没落しかかった旧家に生まれた四姉妹の三女雪子の縁談が縦糸となって物語が展開してゆく。書名にも織りこまれているとおり雪子が主人公であることは間違いないのだろうが、物語の大半は、そのすぐ上の姉(次女)幸子の視点で捉えられている。中心であるはずの雪子は、華奢で人見知りが激しく口数も少ない静かな女性であるため、小説のなかで積極的に動き出すことはほとんどない。逆に周囲の人間たちのまなざしにより雪子の人物像が描かれるという、ネガとポジの効果で雪子の輪郭が浮かび上がってくる。
芦屋に嫁いだ次女幸子が、自立志向のある末妹(こいさん)妙子の奔放な男女関係に翻弄されながら、夫貞之助とともに、婚期を逃しつつある妹雪子の縁談をまとめようと奔走する。「縁談小説」と言っていいほどだが、文庫本900頁を超える分量の大長篇が縁談話で成り立ってしまうというのも、考えてみれば不思議に面白い話だ。
戦前という時代、大阪船場の旧家という境遇、身分という観念が幅をきかせ人間たちをなお縛りつづけている。男と女が外で出会い、恋に落ちて結婚するという自由結婚はまず考えられない。妙齢の女性が未婚でいれば、周囲の人間たちは彼女の結婚をまとめようと気を揉み、似合いの相手を見つけ出しては縁談話を持ちこんでくる。
見合いに至るまで、相手の家の財政状況、家族関係、相手本人の性格などを事細かに調べあげる。縁談にさいし身辺調査をすること、されることはお互いわかっている。調べないで結婚し、あとから相手の親兄弟に問題があったことがわかっても、事前に調べないほうが悪い。見合い結婚が大半を占めた戦前日本社会において、こうした調査を請け負う「興信所」というのは、かなり大きなビジネス市場だったのではあるまいか。筒井康隆さんの『新日本探偵社報告書控』を思い出した(→2004/12/25条)。
細雪』は、「縁談小説」であるとともに、「被災小説」でもある。上巻の終わりちかくにある阪神大水害のカタストロフは、それまでのんびりと描かれていた物語の時空を急速に緊張させる。去年神戸の都賀川で起こった局地的豪雨による河川増水の事故を思い出さずにはいられない。ちくま文庫のアンソロジー『美食倶楽部』*2にある編者種村季弘さんの解説「巨人と侏儒」で植え付けられた地震(災害)恐怖症という谷崎の一面も重なる。
上巻は大水害が物語の山場となるが、中巻には妙子の恋人板倉の病気、下巻には妙子自身の病気など、緩急に富んだ展開、一度物語に惹き込まれれば巻をおくあたわざる吸引力。四姉妹だけでなく、そのほかの登場人物についても一人一人の輪郭が鮮明で、とりわけ幸子の家で働く「お春」を中心とした「お手伝いさん」の群像は、のちの『台所太平記』を彷彿とさせるユーモアに満ちている。
といいながら、結局連休中に読み終えることができなかったのは、ひとえにわたし自身の読書力低下による。五日もあれば、とたかをくくっていたけれど、時間をもてあまして『細雪』の世界に入りこむ緊張感と集中力に欠いた。しかし連休が終わって仕事を再開した二日間とこの週末、物語も後半に入って、ぶ厚い文庫本も先が見えてきたことと、物語そのものが秘めた推進力のおかげで、中断することなく読み終えることができたので安心した。
人生も折り返し点を過ぎ、なかなかこうした大長篇を読み通すのは骨が折れる。そもそもぶ厚さゆえにいざ読み始めるという地点にたどりつくまでの動作が緩慢になる。ためらっているうち、読もうという気持ちはあっという間に日常生活の波に呑みこまれはるか遠くの海に流れてしまう。とはいえ大好きな谷崎の代表作が未読のままというのは、心残りの度合いが大きすぎる。シルバー・ウィークという連休に感謝しなければならないだろう。
最後にひと言。やっぱり谷崎は面白い。
細雪 (中公文庫)

*1:その後中公文庫の「潤一郎ラビリンス」刊行により、このとき読んだような大正・昭和初期の作品は文庫でも読めるようになった。

*2:ISBN:4480023291