言葉から都市空間の変化を探る

なつかしい言葉の辞典

泉麻人さんの本は、ここ数年、出るとたいてい購い、しかも積ん読行きをまぬがれ、ほどなく読んでいるように思う。調べてみると今年も文庫ばかり4冊の新刊を買い、うち3冊を読んだ。『なぞ食探偵』*1(中公文庫、→1/31条)・『バスで田舎へ行く』*2ちくま文庫、→5/26条)、および先月の『おじさまの法則』*3光文社文庫、→11/14条)である。残り未読本は『東京ディープな宿』(中公文庫)で、単行本で既読ゆえ仕方ない。
泉さんが昔を懐かしがったり、東京を歩いたり、食べ物を食べたり、齢を重ねた自分を憂いたり楽しんだりする感性が自分とぴったり合うからなのだろう。
たまたま今年は文庫3冊だけだったが*4、単行本でも出たらこまめに買い、読んでいるはずだ。ただ数年前、買おうと思いつつ買いそびれ、古本で見つけるまで、もしくは文庫に入るまで気長に待とうと考えていた本が一冊だけあった。
それは三省堂から出た『なつかしい言葉の辞典』である。三省堂からそういうたぐいの本を出すという絶妙さと、出たときたしか三省堂本店で重松清さんとの公開対談があったことを憶えている。
先日近所の書店に入ったら、この本が文庫*5になっているのを見つけ、嬉々として購った。ブランドはSB文庫と言って、わたしは本書で初めてこのシリーズの存在を知った。SBとはソフトバンクのこと。このさいどの出版社でも構わない、本書を文庫に入れてくれたことをただ感謝したい。
本書は、泉さんの子供時代から学生時代あたりまで、昭和30年代から50年代までの時期に自身が使ったり聞いたりした「なつかしい言葉」を思い出し拾い集め、ふりかえったものである。といっても、当時の流行語で現在まったく忘れ去られたいわゆる「死語」を集めたというわけではない。少しそれとはコンセプトが異なる。
懐かしいという感情が心の底からわき上がってくるような、「郷愁の琴線にジン、とふれるものが感じ」られるような、「往時の子供まわりの常套文句」がターゲットとなっている。
言葉は五十音順に配列されている。たとえば、「アカデンブ」「アメリカシロヒトリ」「往診」「おたんこなす」「蚊帳」「肝油」「グリコ・チョコレート・パイナップル」「サバいうな」「しょってる」「すかしやがって」「スタミナ」「ちぇっ」「でべそ」「デラックス」「トラホーム」「とりとりじゃん」「ヌガー」「ビフテキ」「百貫デブ」「ポコペン」「夢の超特急」「ライスカレー」「ロクブテ」などなど。
泉さんとわたしは年齢がおよそ一回り離れているが、育ったのが都会と田舎の違いがあるせいか(都会文化の地方波及の時間格差)、「アカデンブ」「アメリカシロヒトリ」「蚊帳」「肝油」「グリコ・チョコレート・パイナップル」「百貫デブ」「ロクブテ」など、自分の子供のときにも使っていた言葉に出くわし、猛烈な懐かしさにおそわれた。
そうそう、小学生の頃、アメリカシロヒトリ駆除の撒布があるときには家の窓を慌てて閉め切ったし、学校給食に柿の種のように長っちょろくて、噛むとじんわり柔らかい肝油が付いてきた*6。「手袋の反対は?」「ロクブテ」と言わせて友だちを六回叩いたなあ。
泉さんによるこれら「なつかしい言葉」の探究は、たんに昔の言葉を取り上げて懐かしがるところにとどまるものではなかった。「酒ぶた」の一文では、昭和40年代前半に子供たちの間で流行したブリキ質の日本酒の酒蓋集めから、酒蓋の材質が変わってきたこと、酒蓋の宝庫だった倉庫兼備の「立派な酒屋」の減少へと触れ、つぎのように結んでいる。

いま思えば、あの酒ブタのブームは、町から〝正しい酒屋〟が消える直前に咲いた〝徒花〟のようなものだったのかもしれない。(92頁)
また「しょってる」の一文では、昭和30年代の映画によく登場するだけでなく、戦前の映画(成瀬巳喜男監督の「妻よ薔薇のやうに」)に出てくる若者の間ですでにこの言葉が使われていることを指摘し、映画に映し出された町並が泉さんの記憶にある昭和30年代のそれとあまり変わっていないことから、こんな推論が導きだされる。
なるほど、この「しょってる」ってフレーズ、戦争にはもちこたえたが、昭和四十年代以降の急速な町並の変貌とともに消えた……ということなのだろう。(113頁)
泉さんの鋭い言語感覚と記憶によって、子どもたちの口から発せられる言葉の変化と都市空間の変化が見事に結びついた。並みの現代文化風俗史では、ここまでクリアに変化の実態を明らかにできまい。

*1:ISBN:412204474X

*2:ISBN:4480420797

*3:ISBN:4334739679

*4:最近単行本『お天気おじさんへの道』(講談社)が出た。ISBN:4062132567

*5:ISBN:4797333251

*6:偶然にも今日の仕事帰り、職場最寄り駅近くの薬局の前で、泉さんも本書で取り上げていた「カワイ肝油ドロップ」が店頭販売され、試供品が配られていた。子供の頃から見るとずいぶんオシャレな包装になっていて驚いた。