佐藤春夫の深謀遠慮

佐藤春夫『この三つのもの』講談社文芸文庫)を読み終えた。
谷崎の長篇「神と人との間」を読み終え、「さあ、次は佐藤春夫だ」と勢い込んでから二週間以上過ぎてしまった。すぐに読み始めたのだが、行き帰りの電車で読んでいたせいもあって、思わぬ時間を費やした。
もっとも原因は読書機会(時間)だけではない。実際「神と人との間」だって電車で読むいっぽうで、その面白さに、家でも時間があると読みついでいたのだから。「この三つのもの」は、わたしにとって、そこまでの牽引力に欠けていたということになる。
谷崎と春夫が谷崎夫人千代をめぐって衝突、絶交に至った、いわゆる「小田原事件」は大正9年(1920)のこと。『この三つのもの』の千葉俊二さんによる解説「谷崎潤一郎佐藤春夫」によれば、その後谷崎がこの事件を素材に「神と人との間」や「痴人の愛」を書いたのに対し、春夫の側から大正14年に書かれたのが「この三つのもの」だという。
この間まだ二人は絶交中であり、その後谷崎との交友が復活、千代夫人が谷崎と離縁して春夫と再婚する、センセーショナルな「夫人譲渡」として話題になったのが昭和5年(1930)のことである。
谷崎が発表した「神と人との間」「痴人の愛」は、フィクションの度合いが大きい。自分をモデルとした登場人物(「痴人の愛」でいえば譲治)の視点から物語をとらえるのではなく、あくまで一登場人物として配し、被虐的なまでにカリカチュアライズしたうえで、物語としては「神と人との間」のように殺人事件にまで発展させるという思い切ったデフォルメをおこなったのに対し、春夫のこの事件に対するまなざしは、自分と谷崎、そして千代夫人の心の襞にまで深く入りこもうとする真摯な態度にあふれている。
だから、「この三つのもの」と「神と人との間」を小説のできばえの良し悪しでくらべてはいけないのかもしれない。「小田原事件」という痴情のもつれに対して、小説家としてこれに対処したのか、当事者として、あるいは人間として向き合ったのか、そういう違いが二作にあらわれたと考えるべきなのだろう。当然前者が谷崎であり、後者が春夫ということになる。
個人的な好みでいえば、谷崎の「神と人との間」のほうが断然面白く、好きである。けれども、「この三つのもの」も捨てがたい。「この三つのもの」は未完作であり、二人が絶交におよぶクライマックスには到達していない。
わずか数日の出来事を、過去のいきさつと重ね合わせて重層的に描いた作品なのだが、小説としての「この三つのもの」は、たとえば谷崎に擬せられる北村が、夫人をモデルとした美代子と結婚し、その瞬間に失敗だったと悟り、その後のぎくしゃくした夫婦関係を語る独白体の一章(第七章)がぞくぞくするほど素晴らしい。
この部分の語りに立ちこめる雰囲気が、たとえば江戸川乱歩の同じような独白体の作品に通じていると感じられるのである。過ぎ去ったむかしを語るときの語り口、その時間との距離感覚、また、その時間がおそらく大正初年頃であろうという時代の空気が見事に伝わる。谷崎と春夫の圧倒的な影響下で探偵小説というジャンルを開拓した乱歩の文体のもとは、こういうところからも確認できたのである。
文庫版『この三つのもの』には、「小田原事件」に関連した他の短篇「一情景」「僕らの結婚」が収められている。「僕らの結婚」は、三人の関係が丸くおさまった昭和5年に書かれたもの。ゴシップ的に取りあげられた「夫人譲渡」のいきさつについて、当事者として淡々と実情を報告した内容である。
いっぽうの「一情景」は、まだ谷崎と絶交中の大正12年に発表された。銀座の資生堂が出てくるなど、軽妙でモダンな都会小説の雰囲気があって好ましい。ただこのスタイルに惑わされるなかれ。実体は恐ろしい告発小説なのだ。
谷崎が千代夫人と別離を決意したきっかけは千代夫人の実妹セイ子(「痴人の愛」のナオミのモデル)との恋愛関係であったが、結局別離直前に谷崎がこれを反古にして千代夫人とよりを戻すことにしたため、春夫との対立に至った。「一情景」は、その後、偶然春夫が資生堂に入って目撃した谷崎とセイ子の密会を小説に仕立てたものなのである。
こんなこわい話を小説にするためのカモフラージュとして、あえて洒落て明るい衣をまとわせる佐藤春夫の思惑は空恐ろしい。
この三つのもの (講談社文芸文庫)