日記文学のスペシャリスト林芙美子

林芙美子 巴里の恋

先日読んだ川本三郎『夢の日だまり』*1日本文芸社、→9/24条)の柱のひとつが「セピア色の紀行」と題された連載物で、ここでは明治から昭和初期にかけ欧米に渡った日本人の紀行が一回一冊ずつ紹介されている。取り上げられているのは、今和次郎島崎藤村近藤浩一路秦豊吉林芙美子早川雪洲・二代目市川左団次小山内薫といった人びとだ。
この時点(初出1992年)ですでに川本さんは林芙美子にまなざしを向けていたことは興味深い。同書を読み終えた直後、積ん読の山を取り崩したなかから、購入後まもなく読み出したものの数十頁で頓挫していた、今川英子林芙美子 巴里の恋』*2(中公文庫)がたまたま出てきたので、この機会にいま一度最初から読み直すことにした。
林芙美子は1931年(昭和6)から翌32年にかけ、シベリア鉄道経由でパリに洋行した。途中約2ヶ月ほどロンドンに滞在し、「旅のなかの旅」を楽しんだりもする。本書はこの洋行で芙美子が認めた「小遣ひ帳」「日記」の原本、および旅先から夫である画家手塚緑敏に宛てた書簡が翻刻されている。
日記原本を読むかぎり、贔屓目に見ても林芙美子がパリの旅を楽しんだとは思えない。着いた早々から「帰りたい」「寂しい」を連発し、「文士が来る所じゃない」と愚痴をこぼす。最初に投宿したホテルとその界隈の印象を、「ホテルと云つても落合のそばの下宿屋みたいに安つぽいところ。ごみ々々したところ本郷のやうなところ」(184頁)と夫に報じたあたり、すでに気分は下降気味と推測できる。もっともこれに続けて「たゞしたてものは銀座以上」とあるように、観察眼はなまっていない。
パリに着いたときの季節が冬だったのも災いしたのかもしれない。別の手紙には「巴里の冬は東京の冬の后後五時頃が昼間のあかりと思へばいゝくらい」(193頁)とある。
こんな暗く落ち込んだ気持ちは、ロンドンに行くことで多少回復したらしい。芙美子にとってはパリよりロンドンのほうが肌に合っていたような感じなのだ。「まだ二日目だが 英国は落ちつける。巴里のやうに植民地的でないのがいゝ」(211頁)と手紙に書いている。
この日記原本の公開がもたらした最大の収穫は、これまで様々な推測がなされてきた、パリ滞在中の恋の相手「S氏」が、建築家白井晟一*3であることが確かめられたことだろう。このあたりの経緯については、編者今川英子さんの詳細な解説「パリは芙美子の解放区だったか」に詳しく、この解説もまた日記原本に劣らず面白く読みごたえがある。
以下今川さんの所論に拠って書く。林芙美子はパリ滞在中の記録として『滞欧記』『巴里日記』という二種類のテキストを発表している。いずれも原日記がもとになっていることは明らかだが、虚構が加えられたり、変更・削除がなされたりと、大きな改変がほどこされているらしい。川本さんは『林芙美子の昭和』*4新書館)のなかで『巴里日記』を、林芙美子がパリで一人暮らししたという事実を最大限に使い、そこに虚構を加えることによって、いわば「あるべき私」を描き出した作品」(199頁)と評している。
林芙美子と言えば言わずとしれた『放浪記』が代表作で、このパリ洋行も『放浪記』のヒットによる印税収入によって賄われている。くだんの『放浪記』も体裁は日記であった。『巴里日記』同様、事実(『放浪記』のもとになる日記の存在は知られていない)に大きな脚色が加えられ文学作品化されたのだろう。
解説のなかで部分的に引用されている『巴里日記』を読むと、原本の暗鬱さとは異なりずいぶん明るく前向きで、『放浪記』に劣らずバイタリティに満ちた印象を与えられる。川本さんもスタイルとしての幼稚さよりも、文章から立ちのぼる「熱っぽい息づかい」を買っている。わたしも、むしろ日記文学としての『巴里日記』を読みたくなったほどだ。たぶん『放浪記』並みに面白いのだろうと予想できる。
『放浪記』といい『巴里日記』といい、林芙美子日記文学というスタイルが性に合っていたとおぼしい。事実かどうか、そんなことは二の次で構わない。『巴里日記』を文庫に入れてくれないものだろうか。
今川さんの解説では、パリで芙美子に対し一方的に好意を寄せる考古学者森本六爾松本清張「断碑」のモデル)や、日記ではわずかしか登場しないにもかかわらず、恋の相手詮索で迷惑を蒙りあまり語りたがらない渡辺一夫と芙美子の関係にも触れられ、それぞれ興味深いのだが、くだくだしくなるのでこれ以上触れないことにする。