再読してわが身の変化を憂う

郊外の文学誌

岩波現代文庫に入った川本三郎さんの『郊外の文学誌』*1を読み終えた。
この本の元版*2が新潮社から出たのは、2003年2月のこと。とおして読むのは約9年ぶりのことになる。わたしは3月2日に感想を書いている(「都市東京にはたらく遠心力」と題してさるさる日記の旧読前読後に掲載。まだはてなに移植していない)。この頃の川本さんは精力的にお仕事をなさっていた時期であり、『林芙美子の昭和』や本書、『青いお皿の特別料理』などを出され、わたしもそれらを興奮しながら読んでいたことをなつかしく思い出す。
初読の頃のわたしは東京に来てまだ5年。子どもも未就学であり、まだまだ貪欲に都市東京の生活から何かを得ようとしていた。地方に住んでいたときに読んだ東京論によって知っていた地域を自分の足で歩き、満ち足りていた。その水先案内人が川本さんであった。川本さんの論じる東京を歩くことに悦楽を感じていた。
そこから9年。東京に住みはじめて14年になろうとしている。もっとも印象深い仙台暮らしの年数(12年)をとうに超え、故郷山形暮らしの年数(18年)に迫りつつある。そんな長い時間を東京で暮らしているにもかかわらず、また貪欲に東京を歩き回ったつもりでいても、東京という町はどうしても自分のなかに根づかない。いまだに自分はよそ者だという意識のまま。50歳という節目の年が意識されるようになり、そろそろ東京を離れ、あらたな環境に身を置いたほうがいいのではないかという思いが、しばしば頭をよぎるようになった。たださすがに14年も暮らしているとしがらみも多くなる。とくに子ども二人は東京生まれであり、学校に通っている以上、家族で環境を変えるということは当分無理だろう。
『郊外の文学誌』を読みながら、内容はおいてそんなことばかり考えていた。論じられている対象である渋谷や大久保、あるいは葛飾や中央線沿線の町々、初読のときとおなじような知的刺激は受けたのだけれど、東京暮らし歴5年のときに感じた中央線沿線の町へのある種の“憧れ”が、9年を経過したことである種の“諦念”に変じていることを痛感している。
一箇所印象に残った文章。

東京は変わり続けていることが常態となった、世界でも珍しい都市である。東京に生まれた人間で、大人になってもなお生まれた家と同じ家に住んでいるという例は、きわめて少ないのではないか。東京では刻々と風景が変わってゆく。だから近過去へのノスタルジーという特別な感情が生まれてくる。京都や奈良のような古都に住んでいる人間は、東京の人間のように消えゆく近過去に対するノスタルジーを抱くことは少ないだろう。(25頁)
「刻々と」「変わってゆく」風景を目の当たりにすることが日常茶飯事になっている(先日も本郷通りの看板建築が取り壊されてしまったことに驚いた)と、「近過去へのノスタルジー」という細やかな感情も麻痺しつつある。地方の人間だからこそ、そうした感情に敏感なのだと思っていたのだが、そんな感情すら鈍磨しつつあるのだから、都市東京への関心低下は明らかである。
もう一箇所。
ひとをひとたらしめているのは記憶である。記憶の連続性である。過去の自分と現在の自分が確かな記憶によって結びついているときに、ひとは安定する。急速度の発展は、この記憶の連続性を壊わしていく。若い父親の記憶がもう子どもには受け継がれないように、速度の急流に身をまかせていると、自分のなかの記憶が壊われてゆく。(329頁)
このくだりを読んで、少なからずショックを受けた。旧冬上梓した拙著『記憶の歴史学*3において、上に引用したような川本さんの文章を引用した。それは2007年に出た『映画を見ればわかること2』の一文であった。ちょうど記憶と史料と歴史との関係に関心を持ち、そのテーマで何か考えることができるのではないかと着想した矢先にこの本に接し、いずれ何らかのかたちでまとまったときには、かならず言及しようとファイルにメモしていたのであった。
ところがそれとほぼおなじ内容のことを川本さんはすでに2003年に書いていたとは。しかもその本は、かつて自分が熱狂して読んだ本だったのである。結局、元版を読んだとき記憶などにまったく関心はなかったということに尽きる。ここでもまた、元版と文庫版を読んだときの我が身の立場の落差を考えてしまった。
昨日今日、宮城県の白石に出張に行っていた。出張先でお世話になった地元白石の方と飲んでいたとき、約一年前の大地震の話になり、それ以来ずっと気になっていたことを訊ねた。仙台に住んでいた頃、休みの日など妻とよく通っていた仙台市の海岸に近い蒲生というところにある市営テニスコートは、津波の被害を受けたのかどうか、という疑問であった。そこはもはや津波で跡形もないでしょうというのが答え。そのとき、仙台暮らしの「記憶の連続性」を支えていた太い糸が一本ぷつりと切れた。どうもそれで精神の安定が崩されたようである。今朝は二日酔いでしばらく具合が悪かった。
さて、『郊外の文学誌』文庫版には、元版になかった索引が付いていて便利である。元版を読了後、その影響を受けて購った本がある。有馬頼義『山の手暮し』である。文庫版を読んで、買ったまま本棚の奥に眠らせていたことに気づいた。さいわい本棚のどこにあるかはわかっている。文庫版を読んだという記憶を連続させるためにも、『山の手暮し』を読まねば、と思う。