連句は想像力のゲーム

とくとく歌仙

安東次男『花づとめ』を読み(→9/25条)、そこで語られている連句の魅力と、連句が発散する共同体的制作現場の雰囲気に魅せられた身として、つぎにその安東宗匠から連句を鍛えられた丸谷才一大岡信両氏がレギュラー連衆となって巻かれた連句『とくとく歌仙』*1文藝春秋)を読み出したのは、ごく自然の成り行きだろう。
調べてみるとこの本は2002年5月に買っている。3年以上も前になるのか。読みたいと思ったから買うのであって、買ってすぐ読まれるのが本冥利に尽きるのだろうが、買いはしたもののうっちゃったままという本は数え切れないほどある。
この『とくとく歌仙』は、書棚の“丸谷コーナー”に収め目につくところにあったので、時々取り出すなど気になっていた本ではあった。ただやっぱり読書はタイミングも大事なのだ。買ってすぐでは本書の面白さを今ほど理解できたとは思えないから(むろん今だって十分理解できているわけではない)。『花づとめ』のあとだからこそ、本書を愉しめたと言うべきだ。
本書には「菊のやどの巻」「大魚の巻」「加賀暖簾の巻」「ぶり茶飯の巻」四つの歌仙が収められている。「菊のやど」「ぶり茶飯」は丸谷・大岡両氏に井上ひさしさんが加わる。ただし「ぶり茶飯」の挙句(最後の七七の句)は執筆役の高橋治さんが詠んだ。その高橋さんが丸谷・大岡両氏と三人で巻いたのが、残る「大魚」「加賀暖簾」である。最初に歌仙四巻が示され、次いでそれぞれの巻について、成立経過を連衆がふりかえった解説的座談がつくという構成となっている。
「歌仙」とは連句のスタイルのひとつで、三十六歌仙にちなんで36句詠むことをこのように呼ぶ。何人かの連衆が順番に五七五の上の句と七七の下の句を詠み、36句までつなげてゆく。途中、月を読み込まねばならない「月の座」(三回)と、花を詠む「花の座」(二回)が定まっていたり、春と秋の句は3句続けて詠まなければならないといったルールがあって、これら歌仙の基本的なルールや考え方については、本書冒頭に丸谷さんと大岡さんによる「歌仙早わかり」という対談で解説されている。
安東さんも論じているが、俳句と発句(歌仙の一番最初の句)は同じようで違う。二人も、現代俳人のなかでは久保田万太郎加藤楸邨山口誓子の句などは発句になりにくいと語る。この違いについては、芭蕉の有名な句「五月雨を集めて速し最上川「五月雨を集めて涼し最上川二つを例にあげて解説がなされる。
二人は、「速し」の句が「一句立て」つまり単独の俳句であり、歌仙の発句としては「涼し」とせねばならぬと論じる。これは「脇」つまり続く七七の句を付けられるかどうかで判断される。「速し」では、「風景がつきはなされて描かれ、それでおしまいという感じになる」けれども、「涼し」だと他者に対して「おい、この流れを見ていると涼しい気分になるじゃないか」という呼びかけになるという。なるほど。
最上川の近くで生まれ育った人間として、当然二つの句を学んだわけだが、たんなるバリエーションだとばかり思っていた。こんな違いを学校の先生が教えてくれたら良かったのにな、とないものねだりをしてみる。ひょっとしたら教わったのに頭に入っていないだけかもしれない。
連句においては、前に詠まれた句を受けることと、次の人が付けられるような句を詠むことが要求される。初心者だった井上さんは、途中で連句で一番大事なのは前の句に付けることだと思っていたら、実は、次の人がいるんですね」(96頁)ということに気づき、流れを作ることに気を配る。
前の人が詠んだ句の情景を(勝手に)想像しながら、その流れに合った句を詠んだり、あるいは、対照的な句を付けたり(「向う付け」というらしい)。あまりに前の句にぴったり寄り添うことは「付けすぎ」と嫌われる。
想像力は人それぞれだから、句を詠んだ人の念頭にあった情景と、次の人がそれを見て想像した情景とは全然異なることもしばしば。何種類か作り提示して、一座の人の判断を仰いだり、宗匠の添削を受けたりするなど、共同作業で作られた句も含まれる。
小説家としての井上さん(それに高橋さんも)は、前の句の情景を微細に想像して勝手にストーリーを作り、それを五七五あるいは七七の言葉に詰めこもうと苦悶する。その懊悩に対し、丸谷・大岡の二人はストーリー性を捨てよとアドバイスをさしむけながら、徐々に連句の面白さ(本質)を理解してゆくという、一人の連句初心者の成長過程をうかがう本としても面白い。
丸谷さんはたとえば、井上さんと同じつぼにはまって悩む元映画監督の高橋さんに対し、「一つ一つのシーンが持つ意味よりも、一つのシーンが前後によって助けられて持つ意味のほうが大事だからですね。行間がものを言う」と映画の比喩を出して助言したり、井上さんには「一情景が浮かび上がれば、ストーリーは読むほうが勝手につくるんですね」と一句完結のストーリー破棄を促す。
巻き終えたあとの連衆による解説対談では、そんな前の句の想像から創作に至る過程や添削の過程が細かく再現されていて、これでだいぶ連句がわかったような気になってきた。連句は、作者たちが句を連ねていって一つの物語を構築するという、現代ではあまり見られない文学形式であることもよくわかった。連句というスタイルは、個人主義文学と共同体の文学との相克」(「歌仙早わかり」での丸谷発言)を鮮やかに際立たせるのである。なるほど連句(を読むこと)は面白い。
こんな文学における共同性ということについてひとつ気になったことがあるが、それは明日書くことにしよう。最後に、本書収録の歌仙のなかで、面白いなあと思った流れを摘記する。「ぶり茶飯の巻」からの抜粋である。長篇小説の一部を部分的に抜き出したことと同様だから、これだけでは流れの面白さが伝わらないかもしれない。

杉 森 々 気 配 充 満 音 消 失      信
 光 る 手 裏 剣 奔 る 鉄 菱      ひさし
口 あ か く 染 め て 笑 ふ は 氷 水    玩(丸谷)
 こ の 人 に し て 雅 号 ま で あ り   信
し や く り し て 彫 り 損 じ た る 印 章 屋 ひさし
 家 代 々 の ま じ な ひ を い ふ    玩