鉄っちゃん

汽車旅放浪記

また夏休みがやって来た。小1の長男は今年もJR東日本の企画「ポケモン・スタンプラリー」の全駅制覇に意欲満々で、彼の母親はいまから憂鬱な顔をしている。『夏休み時刻表 ポケモン・スタンプラリー特別号』がこれに合わせて発売された。スタンプラリーでスタンプが設置される駅を中心にした路線の時刻表と、スタンプ設置場所を示した構内図などが記載されたもので、スタンプラリーに挑む子供は買わずにいられなくなるという、実に素敵な商売をしている。わが家でも買わされることになったのは言うまでもない。
以来長男はこの時刻表を飽かず眺めている。細かく記載された数字の意味にはいまだ興味を示していないようだが、最寄駅の駅名を見つけたり、各頁下段におまけでついているクイズを解いたりして楽しんでいるようだ。いずれ数字のほうに興味を持ちだすようになってくるのだろうか。
ことほどさように、男の子は時刻表、ひいては電車というものに一度は関心を持つようである。わたしも例外ではなかった。分厚い時刻表を買い込み、記されている時間とにらめっこしては、乗り継ぎを考える。時刻表上でのささやかな空想旅行である。そこから鉄道マニアの域にまで到達しなかったのは、行動派ではなかったせいか、旅情が欠けていたのか。
関川夏央さんが鉄道マニア、いわゆる「鉄ちゃん」であることを、新著汽車旅放浪記*1(新潮社)で知った。初老の「鉄ちゃん」であることを自覚する関川さんは、自身鉄ちゃんであることを隠そうとしない。マイナーなローカル線に乗ると、日常的に利用する高校生や老人のほか、いかにも鉄ちゃんとわかる団塊の世代に属する男たちと一緒になる。照れずそこに身を埋没させ旅を楽しみ、かつ鉄道への愛着を満足せしめる。それが『汽車旅放浪記』という一書に結実した。
関川さんは自らの鉄道好きを「一九五〇年代への回帰衝動」と説明する。子供の頃の汽車に対する憧れは、やがて鉄道という「システム」への興味に変わる。

汽車は闇雲に走りまわるのではない。単線を行き違い、乗り換え駅で連絡し、貨物車輛を合理的に配分するためのシステムがあり、それを維持するために何十万人の大の男たちが働いているということへの驚きと頼もしさの念がもたらされた。そこに一九五〇年代から六〇年代前半にかけて、昭和でいえば三十年代の、貧乏くさいのに「明るい」と印象される時代相が重なって、私の鉄道好きはゆるぎないものとなった。それはいわば「幻の町」への回帰衝動であった。(278頁)
システムへの憧れという自らの関心に重ね合わせるように、少年時代の自転車一人旅の旅情と現在のローカル鉄道や鉄道廃線が語られ、また鉄道を愛した文士たちの旅情のありかが、作品のなかからつかみ出される。それは松本清張林芙美子の北九州であり、太宰治津軽宮沢賢治樺太である。
鉄道というシステムへの偏愛が関川さんの個人的経験にとどまらないことは、宮脇俊三の全線制覇、最長片道切符の旅などを通して語られる。「宮脇俊三の時間旅行」と題された読みごたえのあるパートは、宮脇文学を昭和という近代へ、関川さんが好んで使う言葉で言えば近代の“時代精神”へと連結させた、すぐれた宮脇俊三論と言っていいだろう。
宮脇俊三の鉄道への愛着の根源は、戦前という時代の明るく落着いた生活への懐旧の念と、近代をつらぬく鉄道というシステムへの信頼感であった。ゆえに、鉄道というシステムの数字的表現、または計算的文学である「時刻表」を生涯愛し、読みこんだのである。(188頁)
鉄ちゃんとはいかにも極端だが、鉄道愛好という切り口で文学作品に切り込んでゆけば、作家が近代と対峙する様子がわかるうえに、作品論としても新たな見方を提示するものとおぼしい。漱石と鉄道との関わりを論じ「坊っちゃん」や「三四郎」に説き及んだ「漱石と汽車」「二十世紀を代表するもの」「時を駆ける鉄道」3編も新鮮だし、何より内田百間阿房列車」シリーズを“鉄ちゃん的視点”で読みかえた「汽車は永遠に岡山に着かない」は、新しい百間像を提示し、それらが書かれた「時代精神」と人間の関わりに一石を投じている。
阿房列車』には、六十一歳からもう老人になれたよい時代を見るのが賢明だろう。それは百間が、自ら帰れなくした岡山を通過する山陽本線の車窓に少年期を垣間見て、彼方へ去った明治を追懐するのとおなじ気分である。(276頁)
大学生の頃、使いそびれた「青春18きっぷ」を持てあましたあげく、夏休みも終わろうとするある日、日帰り各駅停車の旅を企図したことを思い出した。住んでいた仙台から東北本線を北上し盛岡まで行き、田沢湖線で秋田まで、羽越本線で酒田まで、陸羽西線で新庄まで、新庄から奥羽本線で実家のある山形までたどり着いたところで電車がなくなり、実家に一泊するはめになった。このとき車窓から初めて見た象潟の風景がいまも記憶に残っている。似非なりに自分が旅情を味わったのは、あのときだけかもしれない。