月並みな感想

ひとがた流し

北村薫さんの最新長篇ひとがた流し*1朝日新聞社)を読み終えた。北村さん初の新聞連載小説である。
わが家も購読している朝日新聞に連載されたものだが、最初の数回読んだきり「いいや、あとは単行本になってから読もう」と読みつづけるのを放棄した。せっかく連載というリアルタイムで読むことができるのだから、享受すればいいものを、やはりわたしは「本のかたち」になっていないと読めないらしい。内容的に興味があったとしても、雑誌連載では読む気が起きない。雑誌に一挙掲載というものであっても駄目だ。新聞や雑誌を読み込むことが苦手なのである。
さて本作品は、北村さんの主舞台であるミステリではない。『スキップ』『ターン』『リセット』のいわゆる「時の三部作」のようなSF的仕掛けもない。小学校以来の同級生仲間(ひとりは高校からの同級生)である三人の女性とその家族が主な登場人物である。
三人の年齢は四十を越えている。それぞれがそれなりに起伏のある人生を送ってきた。一人はテレビ局(NHKを連想させる)のアナウンサーで独身。母親を最近亡くした。一人は離婚し高校生の娘がいる。残る一人は娘を産んだ直後離婚し、その後すぐ写真家と再婚して娘は大学生になっている。娘は配偶者を実の父親だと思って疑わず成長した。そんな女性三人の付き合いを中心に、友情や家族愛、男女の関係が、ふだんはゆったり流れながら、ときには川幅が狭まって流れが急に速くなる澄んだ水の流れのような時間のなかでうつろう様子が描かれる。
月並みだけれど、本書を読んで感じたのは、「生きることの喜び」であり「生きることの難しさ」であった。こんな会話の端々から、“生きるのは難しいけれど、人生けっして一人では歩んでいないのだなあ”という気持ちにさせられる。

「向く、向かない、で生きていくことは出来ないよ。大体の人間がね、生きていくには向かないもんだよ。傷ついたり、苦しんだりした時には、自分が殻をはずして歩いてる海老みたいに思えるものさ。でも、何とかやっていくんだ。そうしながら、色々な経験を積んでいく。そうして、少しずつ何かが見え始めるんだ」(116頁)
「人が生きていく時、力になるのは何かっていうと、――《自分が生きてることを、切実に願う誰かが、いるかどうか》だと思うんだ。――人間は風船みたいで、誰かのそういう願いが、やっと自分を地上に繋ぎ止めてくれる。(…)」(205頁)
「子供ってさ、親に何かをさせてくれるだけで、――そういう相手になってくれるだけで、もう十分恩返ししているんだけどね、(…)」(279頁)
三人のなかでも扇の要の位置にあるアナウンサー千波を病魔が襲う。まわりの人間が彼女の先に死を予感せざるをえないような苦しさのなかで、思いがけず救世主がやってきて、千波の残りわずかな人生をともに歩むことになる。女性を中心にやわらかくてゆったりしていた前半の雰囲気が、俄然緊張感を増し、同時に哀しさが押し寄せてくる。
北村さんはなぜこうも若い女性の心理を描くのがうまいのだろう。いやわたしは女性ではないから、北村さんが描く女性がどのくらい鋭く女性心理の勘所をつくものなのかはわからない。けれども、読んでいるうちに、いかにもそうした行動をとりそうな女性の像がはっきりと浮かんでくるから、この感覚は的はずれではあるまい。
いま「若い女性」と書いたが、これはあくまで代表的シリーズ「円紫さんと私」を念頭に置いたものだ。時の三部作などでは、むしろ中年女性が主人公である。本書『ひとがた流し』の親(主人公たち)の世代に該当する。若い女性から成熟した女性まで、柔らかで繊細な彼女たちの感覚を通して切り取られる世界はいかにも新鮮だ。時々そのお行儀のよさに口の中が甘ったるくなることはあっても、読み終えて本を閉じると、好ましい女性の残り香のような爽やかさのみが後味として残る。そんな物語だった。