雪よ林檎の香のごとく

白秋望景

川本三郎さんの新刊『白秋望景』*1新書館)が出たことを知らなかったのは、川本ファンとして痛恨事だった。なにかの新刊案内で見たおぼえはあるのだがそのまま忘れ、別の新刊『時には漫画の話を』*2小学館)の著者紹介中に『白秋望景』とあったのを見てハッと気づき、慌てて新刊書店のサイトを検索したら、すでに発売されていたのである。新書館の新刊本は生協書籍部に入っているはずだけれど、この本にかぎって出会うことができなかった。入荷してくれたのだろうか。
書籍部への恨み言を書いてもすでに終わったことだ。東京堂書店なら、ひょっとして署名本を置いているかもと前向きに考え直し、仕事帰りに神保町へ立ち寄った。ところが東京堂本店は改装工事のため閉店中。はす向かいにある「ふくろう店」の新刊コーナーで無事見つけた。
レジに持っていき精算中、目線の先に、ふだんは本店にある「署名本コーナー」がここに移設されているのを見つけ、店員さんに「この本の署名本はありますか?」と訊ねたら、ないとの返事。そのまま新刊を購入した。帰宅後さっそく読みはじめたのは、言うまでもない。2800円という価格にしてはクロス装の格調高い造本である。カバーには小林清親描くところの浅草の夜景があしらわれている。
「あとがき」から先に読むと、永井荷風(『荷風と東京』)・林芙美子(『林芙美子と昭和』)につづく評伝三部作として本書が構想され、書かれたという。用いている資料(対象作家の作品)の性質が異なるので、手法もおのずと違ったものになっているが、それぞれ微妙に重なりあっているあたり、“川本評伝三部作”としてのまとまりを感じる。
白秋は一時市川や小岩といった東京東郊に住んだ。このあたりは戦後市川に住んだ荷風と空間的な重なりがある。また林芙美子荷風のみならず白秋も尊敬していたという。
柳川(川本さんは柳河と書く)の造酒屋の長男として生まれたものの、火災をきっかけに生家が没落してしまい、親を含めた貧窮生活を余儀なくされる。そもそもが衰退に向かいつつあり、「廃市」と称される郷里と、自身の生家の没落という二重の下降線のなかで若い時期を過ごし、東京に移ってからは人妻との姦通事件があるなど、白秋になかなか安らぐ生活はおとずれない。
田園生活のなかでの子どもの発見、そこから童謡へと向かう道のりを丁寧に追いかけるあたりが、本書の白眉だろう。
わたしが白秋作品を愛読していたのはいまから約20年前のこと。岩波書店から『白秋全歌集』(全3巻)が出た頃だ(1990年)。岩波文庫『白秋詩抄』を片手に、『邪宗門』に収められた「われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法」という「邪宗門秘曲」の、微熱をはらんだ高揚感に魅せられながら、もう片手には、第一歌集『桐の花』が収められた第一巻を購い、短歌も愛唱した。もっとも『白秋全歌集』は第一巻のみでそのまま継続しなかったはず。その歌集もいまは手もとにない。短歌では、

君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ
の一首がいまも鮮烈な印象として残っている。雪が舞うという視覚、積もった雪を踏みしめながら歩く「さくさく」という聴覚、林檎の香のごとくふれという嗅覚それぞれが鋭く結びつきながら、その背景には人妻との姦通という背徳的行為と情欲がひそんでいるという複雑な味わい。
この歌について『白秋望景』でも触れられ、
きれいな恋歌である。朝を共にした「君」を送ってゆく情景だが、朝と雪によって、恋のほてりが冷却されているだけでなく、その清澄感によって、自分は決して世によくある道ならぬ恋をしているのではない、という切実な思いが作り出されている。
と評されている。「清澄感」というのは、言い得て妙なことばである。
本書の第15章で取りあげられている樺太旅行は、『フレップ・トリップ』という紀行文にまとめられている。いまは岩波文庫に収められており*3(版元のサイトによれば現在在庫僅少)、わたしも発売時(2007年11月)購入したが、本書のなかでは全集で読めるとしか書かれていない。初出一覧を見ると、第15章が雑誌『大航海』に書かれたのが同年1月のことらしい。川本さんの白秋再評価が『フレップ・トリップ』文庫化の原動力となったのであろうか。ともかくも、岩波文庫の『白秋詩抄』『フレップ・トリップ』2冊はいま机辺にそなえ、いつでもひもとくことができる体勢になっている。