わがユーミンおぼえがき

わたしが一番好きな歌い手は、いまもむかしも松任谷(荒井)由実である。
なぜ唐突にこんなことを書きだしたかというと、最近就寝前などにYou Tubeを見ることが多く、そこにたくさんアップされているユーミンの曲を聴き、関連動画のつながりで「あれも、これも」と彼女の曲を聴いて(見て)、寄せられたコメントなどを読んでいるうち、共感するところも多く、興奮して逆に眠れなくなるようなことがよくあり、自分のユーミンに関する思い出も書きとめておきたいと思ったからだ。
「ああ、この詞」「ああ、この曲」と、それぞれの楽曲にまつわる思い出もよみがえり、ユーミンの思い出や、現在自分が好きな曲をまとめておくのも悪くないと思うようになった。忘れぬうちに、ユーミンに関するいろいろなことを書いておきたい。
1954年生まれのユーミンとは13年、ほぼひと回り違うことになる。わたしが彼女の存在を知ったときにはすでに姓は松任谷になっていた。この世代の常として、1981年の「守ってあげたい」の大ヒットがファンになったきっかけだったように思うし、それ以前から、何かしら彼女の曲を聴く機会があったようにも思う。81年であれば14歳、中学2年のときだ。
その直後から彼女がパーソナリティをつとめるようになったFM東京の「サタデーアドベンチャー」を毎週熱心に聴くようになった。土曜の夕方(15〜16時)だった。といっても、この番組を聴くきっかけは、FM仙台の開局だろう。開局は82年12月、サタデーアドベンチャーは同年6月開始だから、最初からのリスナーではなかったことになる。もっとも、わたしが暮らしていたのは山形であり、盆地のへりに家があったこともあって、FM仙台聴取の状態はすこぶる悪かったように思う。親にお願いして、FM受信用のアンテナを屋根に据えてもらってまで、エフエムの民放局は魅力であった。『FMレコパル』などのエフエム雑誌を買っては、熱心にエアチェックしていた時代を懐かしく思い出す。
サタデーアドベンチャーが日曜日(17時〜)に移動して「サウンドアドベンチャー」となったのを憶えているのだから、やはりサタデーアドベンチャーの頃から聴いていたことは間違いない。サタデーアドベンチャーの頃、番組のオープニングかエンディングに「真冬のサーファー」がかかっていたように記憶している。
サウンドアドベンチャーになったのは85年だというから、もう高校3年である。高校受験のとき、私立高校を“すべり止め”で併願するということをせず、受けるのは県立の志望高校だけにするという「一発勝負」をした。併願校合格時に支払う入学金がもったいなく、それを払うのであればその分を合格祝いにまわしてもらい、オーディオセットを買ってほしいという条件で親に談判したのである。いま思えば子供のくせに打算的である。このときが人生最大の賭けだったのかも。
FM雑誌などの影響で、すべてをおなじメーカーに揃えるコンポではなく、レコードプレーヤー・アンプ・チューナー・カセットデッキ・スピーカーをすべて自分好みのメーカーにするという、いっぱしのオーディオ・マニアのような心持ちになって、高校合格後音楽機器を検討したものだった。コンクリート・ブロックの上にスピーカーを載せたり、音の良し悪しもわからぬくせに、「いかにも」という身ぶりをして満足していた。
「守ってあげたい」がきっかけなのだから、それを収録した『昨晩お会いしましょう』(1981年11月)がアルバムを聴き始めた最初なのだろうと思うのだが、これをどのようにして入手したのか、まったく記憶にない。記憶にあるのは、次作『PEARL PIERCE』(82年6月)のLPレコードを、山形随一の書店である八文字屋の二階にあるレコードショップで購入したこと、その次の『REINCARNATION』(1983年2月)のLPを、山形市内のレンタル・レコードショップで借りて録音したことだ。
83年の4月に高校に入学したから、その帰り道、町中のレンタル屋に寄って借りてきたのだろう。たぶんこれがレンタル・レコード初体験。『PEARL PIERCE』を購入したのは、『REINCARNATION』が出たあとではなかったかと思う。では『昨晩お会いしましょう』はどうだったか、それが思い出せない*1
そのあと出された『VOYAGER』(1983年12月)、『NO SIDE』(1984年12月)、『DA・DI・DA』(1985年11月)もレコードにて購入したはず。コンパクトディスクの歴史を見ると、日本でCDおよびプレイヤーが普及しだしたのは84年だというから。はじめてユーミンの“CD”を買ったのは、1986年11月に出た『ALARM a la mode』からということになるだろう。大学1年の冬だった。仙台にひとり暮らしをはじめ、CDプレイヤー付のミニコンポを買ったので、CDに移行したのである。
『ALARM a la mode』の中の一曲「ホライズンを追いかけて」を聴くと、不思議に大学1年生の頃の寒い冬を思い出す。ちょうどこの年から、仙台の冬の風物詩として有名な「光のページェント」が始まった。凍てつく12月、親元を離れひとり暮らしを始めた青年(わたしのこと)は、『ALARM a la mode』を聴き、光のページェントで賑わう仙台青葉通りを友人(男だけ)と歩き、青葉通り沿いの駅前にあった映画館で「タッチ」を観た。
いま調べると、観た映画は、12月13日公開の「タッチ2 さよならの贈り物」とおぼしい。ブレッド&バターの主題歌が懐かしくも切ない。憶えるべきことを忘れている反面、観ている途中でお腹が痛くなり、映画館のトイレに駆けこんだという妙なことを憶えているから、これまた不思議。
ユーミンから話がどんどんそれてしまった。山形の高校時代、おなじユーミンファンの同級生と二人で、山形市民会館にて開催されたコンサートを観に行った。高校は男子校だから、同級生は当然、男である。たぶん「ダ・ディ・ダ」のツアーだったと思うのだが、唄われた曲のなかで唯一憶えているのは、アンコールで唄われたピアノ弾き語りの「いちご白書をもう一度」だ。バンバンの曲であることは知っていたが、ユーミンの作詞作曲だったとはそれまで知らなかった。このユーミンの弾き語りのインパクトは強かった。
その後ユーミンのコンサートには二度足を運んでいる。仙台のとき一度、東京に来てから一度*2。仙台(仙台市体育館)ではまだ結婚前だった妻と一緒だったが、さてどのツアー(つまり何年)だったか、それすらまったく憶えていない。憶えているのは、これまたアンコールの弾き語りで唄われた「ずっとそばに」一曲のみ。
このとき「こんな素敵な曲があったのか」と驚いたが、そもそも『REINCARNATION』に入っていたとは。10代前半のわたしは、まだこの静かな曲の味わいがわからなかったのだろう。景山民夫さん原作のアニメ映画「遠い海から来たCOO」の主題歌であると紹介されていた。映画化は93年だから、仙台のコンサートはそれ以後なのだろう。
この「ずっとそばに」を原田知世さんも唄っていたことは、You Tubeで知った。原田さんはわたしと同年の生まれであることも手伝い、おなじ角川映画のスターである少し年上の薬師丸ひろ子さんよりも親しみをもっていた*3You Tubeではじめて彼女の歌声を聴き、たしかにいいとは思いつつも、二番にある「疑うこともなく知り合う人々を“ともだち”と呼べた日々へ」あたりは、やはりユーミンの歌声に胸がふるえる。「ずっとそばに」は、いつもこのくだりで目頭が熱くなる。
You Tubeユーミンの曲を聴いたり、毎朝の通勤退勤にi-podでランダムにユーミンを聴いて歩いたりして、現在四十代もなかばにさしかかった男が、あらためて好きな彼女の曲を思いつくままあげてみる。

  • 「空と海の輝きに向けて」
  • 「瞳を閉じて」
  • 「航海日誌」
  • 「さざ波」
  • 「潮風にちぎれて」
  • 「ジャコビニ彗星の日」
  • 「悲しいほどお天気」
  • 「さまよいの果て波は寄せる」
  • 「雨に消えたジョガー」
  • 「水の影」
  • 「心のまま」
  • 「ずっとそばに」
  • 「経る時」
  • 「Autumn Park」
  • 「冬の終り」

最近の曲(といっても1992年の曲だ)は「冬の終り」だけになってしまった。「冬の終り」の甘酸っぱさは、中学時代を思い出させる。「冬の終り」と「最後の春休み」そして、最近の『そしてもう一度夢見るだろう』収録の「ハートの落書き」は、わたしのなかでの青春三部作である。「Autumn Park」は結婚披露宴(時も10月だった)の退場のときにかけた。披露宴の曲はユーミンづくしだった。
ここ数年は、わたしが本格的なファンになる直前の頃、70年代終わりから80年代初頭にかけてのアルバムがいいと、しみじみ聴いている。『OLIVE』『悲しいほどお天気』『時のないホテル』が素晴らしい。とりわけ『悲しいほどお天気』は、いま一番好きな「ジャコビニ彗星の日」や「緑の町に舞い降りて」「悲しいほどお天気」「さまよいの果て波は寄せる」など、名曲が目白押しだ。「トランジット・ツアー」にて、「ジャコビニ彗星の日」が唄われたとき、感動して涙がこぼれた。
『時のないホテル』は、むかしはずいぶん暗いアルバムだと敬遠していたが、いま聴くとその暗さ、静けさこそが、胸に沁みてくる。「Miss Lonely」「雨に消えたジョガー」「コンパートメント」にまとわる強烈な死の雰囲気、「水の影」の旅情と時間感覚が素晴らしい。
それに加えて最近では自分のなかで『REINCARNATION』の再評価が高まっている。高校時代にはじめてレンタルしたときには、「REINCARNATION」「オールマイティー」「星空の誘惑」「川景色」といった前半の、“いま”を感じさせる軽めの曲に惹かれていたが、東京に移り住んだあたりから「経る時」の詞にしびれ、そこに「ずっとそばに」「心のまま」が加わった。このアルバムも名曲ぞろいである。
たぶん、年齢を重ねるごとに、好みもまた変わってゆくのだろう。どう変わってゆくのか、自分のなかで、どのようにユーミンの曲の「再発見」があるのか、楽しみではある。

以上の文章は昨年11月に書いたまま、アップせずにそのままになってしまっていた。
その後ユーミンについて、いくつか書いておきたいことも増えた。
TOKYO-FMのユーミンの番組が日曜午後から、平日勤務のサラリーマンには何とも聴きにくい金曜午前、しかも30分に短縮される(たまたま日曜の最終回は車内で聴いていた)ことを知り、ショックを受けたこと。
2011年末の紅白歌合戦、「春よ来い」で出演したユーミンの歌う姿に違和感を感じ、途中でチャンネルを変えたこと(もともとダウンタウンの番組のほうを観ていた)。
たまたま朝i-podで流れた曲が「Autumn Park」だった。前述のように結婚披露宴の退場のときかけた曲。この日は長男の中学受験の日にあたっていた。「Autumn Park」の披露宴から17年になんなんとしている。その時間の積み重なりのなかで生まれ育った長男がもう小学校卒業である。そういう“家族の歴史”の節目になるような日とのタイミングのよさに、少し感傷的になった。
これもたまたま朝聴いた曲「ツバメのように」。ユーミンの曲はたいていメロディ優先で、口ずさむにしても詞の意味を深く考えたことはなかった。ところがどういう風の吹き回しか、このときは「ツバメのように」のフレーズが頭に入ってきて、飛び降り自殺をした女性を歌った歌であることに気づき、衝撃を受けた。このアルバム『OLIVE』なんて、もうずっと前から聴いていたのに、情けない話である。「コンパートメント」や「雨に消えたジョガー」だって、似たような経緯で心にとまった曲である。

*1:同じころヒットしていた中島みゆきの「悪女」を収めたアルバム『寒水魚』は、中学の友人の家で聴いていたという記憶が、なぜかある。『寒水魚』は1982年3月の発売。やはり記憶とは不思議なものだ。

*2:東京では、2009年のトランジットツアー。やはりユーミンはいい。

*3:いまでは、薬師丸さんも原田さんも、素敵な年齢の重ねかたをしているなあと、同年代の異性として何となく嬉しく思っている。