寺田寅彦についての本に弱い

寺田寅彦

小山慶太さんの寺田寅彦 漱石、レイリー卿と和魂洋才の物理学』*1中公新書)を読み終えた。著者の小山さんは早稲田大学の先生。理学博士とあり、物理学史や啓蒙的な科学書などの著作がある。寺田寅彦とおなじ専門の先生なのだろう。
本書は物理学者から見た寺田寅彦の評伝というおもむきであるが、副題にもあるように、寺田の学問に影響を与えたレイリー卿の業績も含め、古典物理学からあたらしい物理学へと大変革を遂げる渦中にあった寺田の姿を追いながら、学問の変化を述べた一般向けの物理学史の一面も持っている。
わたしは骨の髄からの文系人間であり、数学・理科は大の苦手。理科でもとくに物理・化学は毛嫌いしていた。共通一次試験では生物を選択したのである。そんな人間だから、本書で説かれる分子・原子論はちんぷんかんぷん、斜め読みになってしまう。それでも寺田寅彦という一本の糸をたよりに、読み通すことができた。
寺田寅彦アインシュタインより一歳年長、ほとんど同時代人である。だから、物理学の世界が古典から脱皮するただなかにあった。しかしあたらしい物理学の世界に踏みこむことはなく、あくまで古典物理学の世界にとどまり、一般の人が「不思議だ」と疑問を抱くような事象の解明に力をかたむけた。
のちにノーベル賞を受賞することになるようなテーマの研究にも携わり、受賞することになる学者よりそのテーマで一歩先んじていたとしても、深入りすることなく、さっと身をひいてしまう。弟子たちは、このまま研究をつづけていればノーベル賞受賞も夢ではなかったのにと悔しがる。学者とは思えないような恬淡さが、小山さんから見れば不思議としか言いようがないのだろう。

にもかかわらず、日本における先達としてせっかく新しい分野の開拓を手掛けながら、ここでも研究をそれ以上は深く発展させず、いわば打ち上げ花火的な形で終えてしまっている。ノーベル賞はともかくとしても、そのあまりの潔さ、淡白さは日本の物理学界にとってはいささか残念であったような気がしてならない。(185頁)
本書において小山さんは寺田寅彦に対し敬意をもち、つねに暖かいまなざしを向けている。ただ学者として「潔さ」「淡白さ」が歯がゆい。精一杯の批判がこの引用文にあらわれている。
寺田寅彦という人物には不思議に惹かれるものがある。大学生になって岩波文庫を読み始めたときも、同級生の友人の影響もあって、『寺田寅彦随筆集』5冊をかなり早く読んだように思う。その後手放してしまったが、東京に移り住んでからおとずれた自由が丘の古本屋の店頭本として5冊を見つけ、買い戻して以来、書棚のつねに目立つところに立ててある。その隣にはおなじく寺田の科学コラム集『柿の種』も並んでいる。ときどき手にとってめくることがある。
かつて松本哉さんが書いた『寺田寅彦は忘れた頃にやってくる』(集英社新書)も買ってすぐ読んだ(→旧読前読後2002/5/23条)。もう10年も前のことなのか。
寺田の評伝が出ると、つい買ってしまう。山田一郎さんの『寺田寅彦 妻たちの歳月』*2岩波書店、2006年)や、末延芳晴さんの『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』*3平凡社、2009年)も購った。けれど末延さんの本は50頁あたりで中断したままだし、山田さんの本に至っては3900円もする高価な本なのに、積ん読のままである。でも、寺田寅彦についての本が出ると、なぜか買ってしまう。
寺田寅彦には、すぐれた科学者にして文人漱石の高弟にして『吾輩は猫である』の水島寒月のモデルといった、たいへんに興味をそそる横顔をいくつも持っている。寺田は三回結婚した。その三人の妻の視点から書いた評伝が山田さんの本。末延さんの本は、書名にあるようにバイオリンという楽器、音楽から見た寺田寅彦の姿をとらえたものだ。さらに今回の小山さんの本は、寺田の本領であった物理学の歴史のなかに寺田寅彦という学者を位置づけようという側面をもつ。多様な近づき方が可能であり、その角度によって、違った顔貌を見せる人物というあたりも魅力である。
学者でありながら名誉欲がなく、潔くて淡白。しかしながら、「ねえ君、不思議だと思いませんか?」という口癖からもわかるように、日常生活で浮かんでくる謎を解き明かさずにはおかないような、好奇心を失わない、みずみずしい感性をもった人物。そんな人間性に惹かれ、つい寺田寅彦についての本を買ってしまうということか。