曲がり角の多い人生

映画字幕五十年

迂闊にもまったく意識していなかったのだが、昨日触れた宮田昇『戦後「翻訳」風雲録―翻訳者が神々だった時代』*1本の雑誌社)を自宅で読むいっぽう、電車本として選んだのが清水俊二さんの『映画字幕スーパー五十年』*2(ハヤカワ文庫)だった。
宮田さんの本のうち「映画字幕者が神々であった時」で取り上げられているのが清水俊二さんなのである。ここでは、『映画字幕五十年』のあとがきにおいて、同書の仕掛け人が宮田さんであることが紹介されていることに触れられ、「心から恥ずかしく思った」とコメントが付されている。清水さんの本の元版あとがきには、こうある。

そもそも、このような自伝めいたものを私が書くことになったのは仕掛人がいたからである。その仕掛人は洋書の版権を扱っているユニ・エイジェンシーの社長宮田昇である。
 宮田君は私とは長いつきあいで、この本に書かれているようなことはほとんど知っている。映画字幕の仕事の記録を残しておくこともさることながら、私のようなまがりかどの多い奇妙な人生をすごしてきた人間はあまりいないのだからぜひ書いておきなさい、としじゅうすすめていた。(387頁)
なぜこれを読んで宮田さんが恥ずかしく思ったのか。連載を紹介した雑誌(角川書店の『野性時代』)に清水さんが第一回分の原稿を書き渡したところ、担当編集者の退社のため原稿がお蔵入りになったままで、しばらくたってからそのことを知り、慌てて元担当者の残した書類の山から原稿を救い出し、別の雑誌に掲載されたからだという。
そうした経緯で救われた清水さんの自伝はとても面白かった。本人が「まがりかどの多い奇妙な人生」と書くように、先輩らの引き立てやみずからの意志で勤め先や職業を思い切って変わったり、いろいろな世界における一流の人びととの交流があったり、山あり谷ありで読む者を飽きさせない。
府立一中・二高を経て東大経済学部卒業というエリートコースをたどりながら、昭和初年の就職難の時代に直面し、東大在学中映画研究会に属していた縁でワーナー・ブラザースの宣伝部に入社した。「不況つづきで就職難の時代とはいえ、東大を出ていながら外国の映画会社に入るとはどういう了見なのであろうと不審顔をされる」(16頁)という時代だったという。
さらにその後ワーナーからMGM映画に移り、ワーナーでの上司だった楢原茂二の推薦でパラマウント映画に移る。当時パラマウントは全作品にスーパー字幕をつけようと企図しており、その日本語字幕担当者として清水さんが抜擢されたのだった。これを快諾した清水さんは、昭和6年から8年まで、足かけ3年の間ニューヨーク生活を体験する。
ここまでは本書のうちでも四分の一ないし三分の一程度に過ぎないのだけれど、それだけでもチェック箇所がいろいろある。たとえば大正12年9月1日の関東大震災のとき、仙台の二高生だった清水さんは、その日から始まる二学期に間に合うよう、ちょうど前日上野を立っており罹災をまぬがれたという話。地震があった時刻には仙台の友人の下宿で雑談をしていたという。仙台では「車軸を流すという形容がぴったりのどしゃ降り」という天気だったという。東京でもあの日にわか雨が降った。
清水さんの人生を左右することになった先輩楢原茂二という人物も意外だった。彼はワーナーの宣伝部長という本業のかたわら長谷川修二という筆名で『新青年』に小説を書いていたという。関西在住で谷崎潤一郎とも交友があり、あの渡辺温鉄道事故死のさい*3、渡辺が乗っていた車に楢原も同車しており、負傷したという挿話には驚かされた。
ところで本書は、書友退屈男さん・ふじたさん(id:foujita)に教わったものである。ふじたさんといえば戸板康二。清水さんは、宝塚ファンの有志で結成された「リラの会」で戸板さんと一緒で、本書でも何度か戸板康二の名前が登場する。喉の病気で声を失ったところまで同じだ。
戸板さんと清水さんの挿話といえば、「16 〝家〟はいけません」での話が面白い。清水さんは自分が「映画批評家」と呼ばれるのが好きでないという。批評家の英語はcriticで、辞書には「(一般に)批評家、(特に)酷評家、あら捜し屋、口やかましい人」という語釈があるからだとのこと。
あら捜しをして、口やかましく文句をいうのは私の性に合わない。あらが見つかったら、サカナにして噛みしめて、自戒のたねにすればよいと思っている。映画批評家(映画評論家はなおのこと)と呼ばれると、どういうわけかバカにされているような気分になる。(301頁)
この清水さんの姿勢は、戸板さんと共通するのではあるまいか。「家」が嫌なので、自分の肩書きを「映画字幕監修者」としてもらったという清水さんの話を聞いて戸板さんは、「清水さん、それはよかった。〝家〟はいけません。医者、役者、芸者、〝者〟の方がずっと気がきいてますよ」と歓迎したという。この戸板さんの反応もすこぶる気がきいている。
戸板さんにせよ清水さんにせよ、彼らを慕う人びとがまわりに集まり、ある種のグループをつくったというのは、こうした人柄、社会に対する姿勢に共通したものがあったからなのだろう。
最後にもう一度宮田さんの本に戻ると、このなかで清水さんの翻訳方法の一端が紹介されている。
原文をパラグラフごとにしばらくの間、喰い入るように読み、それから原文を見ずに、凄まじい勢いで原稿の升目を埋めていく。それを繰り返して進めていくことである。もちろん、その前に映画の字幕翻訳と同じく何回も原書を読んでいる。(156頁)
翻訳者の「芸談」とも称すべき、貴重な見聞である。そのほか、夫人が清水さんのことを「旦那様」と呼んでいたという話も面白い。「古風な顔立ちの美しい夫人がその言葉を使い、それを受け止める清水の姿は、私たちが失った抑制のきいた夫婦の愛情を感じさせ、清々しささえ覚えた」(155頁)と宮田さんは書いている。
清水さんの本には、この夫人は清水さんと結婚する前、古川ロッパ一座の若手と同棲していたという因縁話が紹介されている。夫人との出会いにいたるまで興味深いエピソードの宝庫なのであった。