翻訳(者)はむずかしい

戦後「翻訳」風雲録

翻訳物をあまり読まないゆえか、翻訳という仕事に対する理解度も低い。とはいえ、どのようにして翻訳がなされ、一冊の本として仕上がってゆくのか、興味がまったくないというわけではなく、むしろ逆に大いに興味があった。
先日の市川古本屋めぐりツアーで入手した宮田昇さんの『戦後「翻訳」風雲録―翻訳者が神々だった時代』*1本の雑誌社)は、そんな好奇心を満足させてくれるものであった。
著者の宮田さんは早川書房の元編集者で、早川書房を退社後海外書の翻訳権エージェントの事務所代表として、長く翻訳物出版の現場に関わってこられた方である。だから本書では早川書房を中心とした、ミステリやSFの翻訳者、作家の名前が多く登場する。
副題の「神々だった時代」というのは、本書で取り上げられる人々がすでに鬼籍に入ったという意味も含まれているようだが(「はじめに 翻訳者の神々」)、「神々」のように祭り上げられ、神々のように振る舞った人々という含意もあるのだろう。それほどまでに本書で取り上げられた人々は「奇人変人」だらけという印象が強い。
本書は「詩人たちが神であった時」「奇人が神であった時」「児童文学者が神であった時」「編集者が神であった時」「映画字幕者が神であった時」「大学教員が神であった時」「出版社が神であった時」という七つの章から成っている。
詩人というのは早川書房の元編集者でもある田村隆一、奇人は高橋豊・宇野利泰・田中融二、児童文学者は亀山龍樹、編集者は福島正実、映画字幕者は清水俊二、大学教員は斎藤正直、出版者は早川清各氏が取り上げられ、それぞれと著者との関わりからその人となりや仕事ぶりが回想されている。正直わたしにとっては知らない名前が多い。せいぜい田村隆一、宇野利泰、福島正実清水俊二、早川清の名前を知っている程度。
このうち清水俊二さんについては、いずれ書く機会があるだろうからそのときに触れるとして*2、面白い人だなと思ったのが宇野利泰。この人の訳書は古典ミステリに多いから、わたしもいくつか読んだことがある。
東横線の武蔵小杉の隣に戦時下から戦後の一時期まで「工業都市」なる駅があって、この駅を東急に働きかけ開業させたのが宇野なのだという。彼が持っていた工場が駅の近くにあったという風変わりな人物像。
もとより裕福で、文壇についての該博な知識と人脈を持ち、田園調布では石坂洋次郎の隣人だったという。多くの下訳者を使いながら、使い捨てでなく能力を育て、数々の優れた翻訳者を送り出したという功績もある。子供は通産省のキャリア官僚。小林信彦さんの処女作『虚栄の市』のモデルにされ、それを気にするものの同書を買って読まず、宮田さんにどこからか借りてきて見せてほしいと懇願するという謎の行動をとる。
宮田さんはこのとき宇野から「君は買うな」と強く言われ、そのまま買わず、読んでもいないという。ここで述べられている小林信彦さんの作品に対するちょっとした批評も意味ありげだ。
いまの宇野のくだりにもあったが、翻訳において、名前が表面にでる「翻訳者」と、その陰にいる「下訳者」との関係はどんなふうで、どういう作業を行なうのだろうかという疑問は常にあった。本書を読んでも別にこの疑問が解決したわけではなかったのだけれど、翻訳一本で生活するということはなかなか苦しいらしい。

たしかに最近の翻訳出版は、半年かけて翻訳して手取り六十万に満たぬ場合もある。大学教員や主婦の内職であれば、成り立つかもしれないが、プロの場合、ロングセラーを続けるバックタイトルを数多く持っていないと、生活が成り立たない。(94頁)
翻訳者のふところに入る印税は、ふつうに本を書いたときに入る印税と税率が違うのだろうか。そんな基本的なことがわからない。
また、翻訳と著作権との関係も難しい問題があることを知り、なるほどと感心した。
翻訳のような二次的著作物の使用の場合、著作権は外面形式、表現のみにしか及ばないという、民放連の著作権専門家の意見もあり、……(134頁)
つまり、海外ミステリのアイディアを借用する場合、原作者(原作の著作権者)の許諾をとればいい。翻訳者には配慮はいらないというのだ。翻訳者がクレームをつけても、「この海外ミステリは日本語訳で読んだのでなく、原書で読んだのだ」とうそぶいたら通用してしまいかねない。なかなか厄介な話である。
私とて、原作の面白さがどれだけ翻訳のうまい、下手によるか、それに無知な世間一般にやりきれなさがあった。(135頁)
たしかに翻訳者の翻訳の仕方、日本語のうまさに依存することはよくわかるのだけれど、何せ原文を読む力がないものだから、どんなふうに力量の差異があらわれるのかピンとこず、困ってしまうのである。

*1:ISBN:4938463881

*2:実はいま清水さんの『映画字幕五十年』を読書中なのだ。