一族の顔合わせ

土の器

『宝塚というユートピア*1岩波新書)を読んだきっかけのひとつに、庄野潤三作品をあげた。庄野さんは親友である阪田寛夫さんの娘大浦みずきさんの縁で、宝塚歌劇を毎年観に行く。
わたしの場合、今年に入ってから読みはじめた庄野作品を通して阪田寛夫という名前が刻みつけられたわけだが、そんな記憶も新しい3月、阪田さんの訃を聞いて、暗然たる気持ちになった。
不穏当な言い方になるかもしれないけれども、阪田さんを悼む以前に、親友の死を庄野さんがどのように受けとめているのか、気を落さなければいいが、などと、庄野さんを気づかう気持ちのほうが先に出てしまった。でも、庄野ファンの人の多くはまずそう思うのではあるまいか。
庄野作品と出会う以前から阪田寛夫の名前を知らないわけではなかった。ただどういう経緯で知っていたのかまでは定かではない。あの童謡「サッちゃん」「ねこふんじゃった」の作詞者として有名であり、芥川賞作家でもある。昨年2月に、その芥川賞受賞作品『土の器』*2(文春文庫)を買っており(→2004/2/19条)、いい機会なので読むことにした。いわば“宝塚読書”といった風情である。
本書には「音楽入門」「桃雨」「土の器」「足踏みオルガン」「ロミオの父」の5短篇が収録されている。いずれも自らの家族・親族を描いたもので、「音楽入門」は父親、「桃雨」は祖父(桃雨は俳号)、「土の器」は母親(の死)、「足踏みオルガン」は義理の叔父(「椰子の実」の作曲家大中寅二)、「ロミオの父」は次女(大浦みずき)が中心となる。
著者は「あとがき」で「最初からそんなつもりはなく、一つずつ夢中で書いてきただけなのに、結果として十年のちに、一族の顔合わせのような作品集を編めることになった」と語り、「身近な人を書くのが、私の当面の仕事だろうか」と結んでいる。この作品集につづく短篇集のようなものはあるのだろうか。
庄野さんも阪田さんも東京住まいである。しかしながら、庄野さんの文章を読むと、どうもそのなかに「関西の空気」を感じてしまう。むろん帝塚山学院創設者の係累であるという前提があるゆえかもしれないが、それを抜きにしても、庄野さんの作品を読んでいると、場所の感覚を喪失するような、そんな不思議な印象をいつも持つ。
そしてやはり、阪田さんの文章を読んでも、庄野作品と同様の「関西感」を感じる。阪田さんの家は父母が敬虔なクリスチャンで、「音楽入門」では、父が聖歌隊の指揮者であり、母もその聖歌隊に加わっていたことが書かれてある。
そんなハイカラでバタくさい、「阪神モダン」を象徴するような家庭の雰囲気が、阪田作品や庄野作品のバックボーンとして存在するのかもしれない。あるいは東北出身のわたしにとって、関西とりわけ阪神地域あたりは「異国」としか感じられないという単純な理由なのかもしれないが。
文庫版の解説が庄野潤三さんだ。その末尾で、「土の器」が芥川賞を受賞したときのこんなエピソードが紹介されている。

芥川賞の発表のあった晩、外出先の劇場で知らせを受けた本人から電話がかかった。いつも静かに話す彼が一層ピアニシモになり、私たち家族全員が受話器の前で唱える万歳を無言で聞いていた。
受話器の前で庄野一家が万歳を唱えているシーンが目に浮かぶようである。