親密さの向こうがわ

鉛筆印のトレーナー

今年1月に文春文庫に入った『せきれい』を読んでその作品世界に感銘を受け(→1/23条)、同書が含まれる“老夫婦物”を中心とした「庄野潤三強化年間」を高らかに宣言したはいいものの(→1/28条)、『せきれい』はこのシリーズの三作目にあたり、さらに、それに先行する同系統の作品群があることを知ると、順序通り読まなければ気がすまないという困った性分が首をもたげてきた。
結局それから今年は、まだ中学生だった長女を筆頭に、生田に越してきたばかりの庄野一家のフロンティア物語『夕べの雲』(講談社文芸文庫、→4/23条)と、結婚して南足柄に住み、庄野さんにとっては孫にあたる四人の男児をもうけた長女との交流の物語『インド綿の服』(講談社、→3/2条)を読むにとどまっている。「老夫婦物」の入り口にすらまだ到達していないわけだ。
入り口(第一作の『貝がらと海の音』)にたどりつくまでには、まだ未読の二冊の本がある。庄野夫妻にとっては初めての女の子の孫になる「フーちゃん」(次男夫婦の長女)との交流を中心に綴られた『鉛筆印のトレーナー』*1福武書店)とさくらんぼジャム』*2講談社)である。
フーちゃん中心とは言うものの、日常的な身の回りの「嬉しい」出来事を淡々と綴ってゆくという基調は“老夫婦物”とまったく変わりない。その意味では“フーちゃん物”と“老夫婦物”をわざわざ区別する必要はないわけである。
強化年間宣言をした以上、せめて“老夫婦物”の入り口まではたどりつくべく、まず『鉛筆印のトレーナー』を読むことにした。物語のはじめの頃フーちゃんは4歳で、この連載中に幼稚園に入園する。ジジバカ・バババカとも言うべき溺愛で初めての女の子の孫を可愛がる庄野夫妻だが、その筆致に食傷しないのはなぜだろう。
たぶん、執筆者である祖父庄野潤三さんが、多くの場合観察者に徹し、あまり自ら物語のなかに入っていかないせいではあるまいか。フーちゃん一家は通称「山の下」に住まう。山の下の次男の借家の向かいには、同じ大家の家作で長男の借家もある。「山の上」に住まう祖父母と「山の下」の長男・次男一家は頻繁に往来し、これまた庄野文学特有の「おすそわけ」関係が展開される。
庄野さんは午前中体調管理のための散歩を欠かさず、他の時間は執筆にあてられているのだろう。「山の下」との往来はもっぱら妻に任せているから、フーちゃんの話は妻経由で聞かされることが多い。妻からの伝聞(=庄野夫婦の会話)が、物語というかたちで客観化されて文章になるのである。だからくどさがない。
本書のなかで大きな事件と言えば、長男夫婦に待望の第一子が誕生したことだろう。フーちゃんにつづく二人目の女児の孫で、「恵子」と名づけられた。ああそう言えば、今年新刊で出た庄野さんの“老夫婦物”は『けい子ちゃんのゆかた』というタイトルだった。本書で誕生が嬉しげに報告され、それからは常に暖かいまなざしで見守られることになる恵子ちゃんがこの「けい子ちゃん」なのに違いない。もうけい子ちゃんは小学生だろうか。別に自分のことではないのに、なぜか時の流れを感じてジーンときてしまう*3。順序どおりに読んでゆくとして、『けい子ちゃんのゆかた』に行き着くのはいつのことか。
親と子供たちの家が比較的近所で、用事を思いついたら散歩がてら駆けつけることが可能な距離にある。実際頻繁に行き来して到来物や拵え物を贈り、贈られしている。にもかかわらず庄野一家には適度な心理的距離感が保たれているのが何より好ましい。大事な頂き物をしたとき、電話で礼を言うだけでなく、まず手紙で謝意を示す。こうした礼の関係は親子間に限らず、本書のなかで庄野家と「おすそわけ」関係にある清水さんでも同じだ。南足柄の長女は言うまでもない。
手紙を出し、それが相手の目に入る前に直接会ってしまう可能性が十分あるのに、手紙を認めることを怠らない。べったりした依存関係になることが、こうした手紙のやりとりを行なうことなどにより、うまく回避されている。親しみの向こうがわには、相手に対して距離を保った礼儀が厳然と存在する。
ある日庄野さんはフーちゃんからちびまる子ちゃんのラムネをもらった。

このとき、フーちゃんに「有難う」というのを忘れて、貰ったラムネを口に入れたことに、あとで気が附いた。フーちゃんは、妻から何か貰ったとき、いつも「ありがとうございます」というのに、いい年をした大人でありながら、礼をいうのを忘れたのはまずかった。(214頁)
こんな礼の精神が基底にあるからこそ、庄野夫婦と長女・長男・次男一家、また周囲の「おすそわけ」文化圏の人びととのあたたかい交流がストレートに伝わってくるのだろう。

*1:ISBN:4828824286

*2:ISBN:4163145400

*3:【追記】これを書いたあと、積ん読の山の底からようやく『けい子ちゃんのゆかた』(新潮社)を見つけだした。見るとけい子ちゃんは中学生、フーちゃんは高校生になっている。ますますジーンとなってしまった。