悠久なる時間の流れ

貝がらと海の音

庄野潤三さんの『貝がらと海の音』*1新潮文庫)を読み終えた。
本書は現在まで続く「老夫婦物」の第1作である。リストについては去年1/28条でまとめた。そのとき読んだのが、文春文庫に入ったばかりの『せきれい』で、これは第3作目だった。この世界にすっかり魅了され、以後庄野さんの本を愛読するようになったのである。
その後「老夫婦物」と内容的にはほとんど変わらず、時期的にこれらに先行する作品群があることを知った。わたしの性分としてこうしたシリーズは順を追って読まないと気がすまず、結局『夕べの雲*2講談社文芸文庫、→2005/4/23条)を手始めに、『インド綿の服』*3講談社、→2005/3/2条)を読み、さらに次男の長女で、庄野さん夫婦にとっては初めての女の子の孫になるフーちゃんを主人公にした『鉛筆印のトレーナー』(福武書店、→2005/12/11条)・『さくらんぼジャム』*4文藝春秋、→2005/12/30条)を読んだ。
時期的にはたぶん『さくらんぼジャム』から「老夫婦物」につながるのだろう。ところが今回『貝がらと海の音』を読んで、それまで書名だけ聞いたことのある『エイヴォン記』は、フーちゃんが二歳の頃に書かれた同様の長篇随筆であることを知った。『鉛筆印のトレーナー』も『さくらんぼジャム』も、古本屋で入手できた経緯はまったくの偶然で、それ以外目にしたことがないくらいだから、入手は難しいかもしれない。
さて『貝がらと海の音』を読んでいて悪い癖が出そうになった。むかし日本史の史料を読みながら、そこに記述されている贈答関係の記事を拾い集めたことがある。その癖でつい庄野さんの文章を史料のように見なし、そこに描かれている贈り贈られの関係を一覧表にまとめてみると何か面白いことがわかるのではないかと思ってしまい、慌ててそんな誘惑を振り払った。だいたい古記録と異なり、これは文学作品である。事実が全て書かれているわけではないのだ。…などと真面目に論じるのすら愚かである。文学作品として純粋に楽しまねばならぬ。
フーちゃんは小学二年生。あいかわらずおとなしい女の子であるようだ。はじめに読んだ『せきれい』ではそうした意識がなく読んでいたので、フーちゃんの印象があまりない。前の著作から続けて読むほど、まるで家族か知り合いのようにフーちゃんの成長を見守るようになってしまう。順番が来たら(次の『ピアノの音』のあと)再読しなければならないだろう。
本書で心に残ったことを以下書き連ねてみよう。「二」で書かれている、南足柄に住む長女が拾ってきた仔犬の里親捜し騒動。「五」で、次男一家の子どもたちが七五三を迎えたとき、きれいな着物を着させられ記念写真を撮るために写真屋で待つフーちゃんの心細い顔を見て泪が出てくる庄野さん夫婦の姿。
就職したばかりの長女の長男(つまり庄野さんにとって初孫にあたるか)が自ら『夕べの雲』を読もうとして、母親から薦められたという記述。母親がまだ少女だった頃の家族を描いた小説を、その息子が読んだという記述に、悠久なる時間の流れを思いジーンときた。
次男が勤めている会社(レコード販売)が書籍販売に力を入れることになり、仙台に新しいビルを建てるという話。次男はその準備のため仙台に出張する。時期的に自分が仙台に住んでいた頃にあたり、「ああ、あのビルのことか」と、開店直後に足を運んだことを懐かしく思い出した。でもあの店では結局書籍販売ははかばかしくいかなかったのではなかったか。
妻が習っているピアノの曲「ミッキーマウス・マーチ」を聞き、庄野さんは子供の頃を思い出す。

ミッキーマウスの映画は、われわれが子供のころからある。私の小学校の同級生に漫画をかくのが特別上手な芦田三郎君がいて、ミッキーマウスを上手に書いたのを思い出す。この芦田君と私は漫画友達であった。芦田君はこの前の戦争でフィリピンで戦死した。(256頁)
ごく素っ気ない文章のなかに故人に対する強い哀悼の念を感じとるとともに、「この前の戦争」という表現があたかも京都の人が応仁の乱を「この前の戦争」と呼ぶのと同じような、戦争に対する思いが伝わってきた。ここでも時間の感覚が特別である。
最近のことと昔のこと、時間を自在にあやつって記憶の引き出しから思い出を自在に出し入れする庄野さんの表現術に惹きつけられたまま、あっという間に一冊読み終わった。