「翻訳」する谷崎

谷崎潤一郎と異国の言語

野崎歓さんの谷崎潤一郎と異国の言語』*1人文書院)を読み終えた。
本書については、すでに辻原登さんの書評があって(8/17付毎日新聞書評欄)、そこで辻原さんは「谷崎について書かれた本はどれも面白い。なぜだろう」という問いかけから書評の文章を始めている。まったく仰せのとおり。
まず、「はじめに」の文章にただよう香気の高さに、野崎歓という著者への信頼感が確たるものとなった。文章の雰囲気が、同じ仏文学者で野崎さんよりいくらか年下の堀江敏幸さんを連想させられるのである。
次いで第一章から第五章までに展開される谷崎論の切り口の斬新さに目をみはる。取り上げられているのは「独探」「鶴唳」「ハツサン・カンの妖術」「人面疽」「卍」の五篇。これまでほとんどかえりみられることのなかった短篇「独探」から入り、最後に「卍」に抜けていくという論理の筋道に「なるほどそうきたか」と唸らされた。
本書は、大正期における谷崎作品にみなぎる異様なオーラの源を「外国語」との出会いと学習の場面で生じるエネルギーと見て、大正期の谷崎作品をそうした切り口から整理するものである。
そのさい第一の素材として選ばれたのが「独探」である。「独探」は、小説家タニザキ氏が憧れの西洋に一歩でも近づこうとして、個人教授を雇ってフランス語を習得しようとした顛末を描いた短篇である。
野崎さんは本作品を「一見ノンシャランな随筆調を装いながら、作家における〈言葉〉の体験、〈外国語〉の体験のありようをごく具体的に物語った興味津々の物語」とする。大正期谷崎作品のなかでもほとんど目立たない本作品に着眼したのは、野崎さんのファイン・プレーであった。
私も過去に読んだはずなのだが、その読んだ日の日記(90年3月13日)には、読んだことの事実しか書かれていない。何の印象も残らなかったとおぼしいのだ。
第二章以降は、「鶴唳」「ハツサン・カンの妖術」というそれぞれ中国・インドとの異文化接触に触れ、「人面疽」では映画的言語、そして「卍」では標準語を関西弁という「異国語」へと翻訳する試みが跡づけられる。
外国語との接触から生み出される谷崎作品のエネルギーというその同じ地平に「卍」を位置づけなおしたことで、数多ある谷崎論のなかに本書が屹立する場が用意された。