谷崎と横浜と映画

潤一郎ラビリンス15 横浜ストーリー

県立神奈川近代文学館の常設展では、谷崎潤一郎も取り上げられていた。『谷崎潤一郎全集』第26巻所収の年譜を見ると、それまで住んでいた小田原(といっても小田原には1年も住んでいない)から横浜本牧に転居したのが大正10年(1921)9月のこと。前年5月、横浜に創設された大正活映という新興映画会社の脚本部顧問として招かれている。この頃谷崎は映画に情熱をそそいでいる。
ところが転居直後の11月、大正活映との関係を絶ってしまう。翌11年8月には、台風により本牧の家が被害にあい、10月、外人墓地の上にある山手に転居、翌年9月の関東大震災までここに住むことになる。谷崎は横浜に約2年間、本牧と山手ふたつの場所に住んだわけである。
谷崎と横浜ということで思い出したのは、中公文庫『潤一郎ラビリンス15 横浜ストーリー』*1だ。同書には、横浜時代、映画制作に関わった体験をもとにしているという長篇「肉塊」と、震災直後、それまで住んでいた横浜での生活をふりかえった回想エッセイ「港の人々」2篇が収められている。
谷崎の小説、とりわけ関西移住後書かれた『痴人の愛』や『卍』といった代表的長篇以前の、大正期に書かれたマイナーポエットはほとんど読んできたつもりだったが、この「肉塊」という長篇はまったく見逃していた。全集の年譜や著作目録で確認すると、震災直前の大正12年1月から4月まで『東京朝日新聞』に連載されたもので、並行して『神と人との間*2も執筆されている。
小林信彦さんの読書エッセイに影響を受けた物語指向とあいまって、山本周五郎につづく“横浜読書”第二弾はこの本に決めた。
さて、長篇「肉塊」の筋は、横浜元町に店を構える西洋家具店の主人小野田吉之助が映画に凝り、芸術性の高い映画作品を撮ることを夢み、店をやめて敷地に映画スタジオを設立したものの、うまくゆかず投げ出しそうになったところで意外な展開が…というものである。
道楽のため財産を蕩尽する夫を陰で支える貞淑な妻、吉之助の中学時代の友人で、アメリカで映写技術を学び彼と共同で制作会社を作る映画一筋の男、横浜の仮面舞踏会で女優としてスカウトされた官能的な混血の少女がそこに絡む。吉之助は、この混血の少女のなかに、自分が夢想した映画を実現させる力を見いだし、彼女を主人公に映画を撮ることに情熱を傾ける。
そのうちに吉之助はわがままな少女に翻弄され家庭をかえりみなくなり…というストーリーは、数年後に書かれる『痴人の愛』を彷彿とさせる。編者千葉俊二さんの意を尽くした巻末解説でも、「『痴人の愛』の先駆的作品」と評されている。
この千葉さんの解説には、「谷崎の横浜時代を代表する作品」ともあって、谷崎が映画制作と関わりつつ横浜で暮らすなか、いかなる内的動機によって「肉塊」が書かれたかということが詳細に跡づけられており、付け加えることがない。
谷崎作品全体のなかに本作品を置くと、どう贔屓目に見ても面白い小説とは言えない。当時の映画に熱中する自らの姿と、これまでの作品にもたびたび登場する芸術至上主義的な夢想家、またちょうど「小田原事件」のさなかにあった家庭のゴタゴタ、『痴人の愛』へつながる奔放な女性に振り回される男の像、そんな大正後期の谷崎的モチーフがないまぜになって生み出された小説であることは間違いない。
この小説はこんなふうに語り出される。谷崎版「日和下駄」のおもむき。

すべて、或都会の特色を知るにはその都会での一番賑やかな街を歩くのが捷径である。(…)しかし必ずしもそんな賑やかな街通りでなくとも、たとえば何処の都会にでもよくありそうな裏長屋の路次のような場所であっても、注意して見れば何かしらその地方でなければならない独特の空気があるものである。
さらに次のパラグラフ。
そういう意味で、街をぶらぶら歩くと云うことは実に面白い。単調な田舎路や海岸などを歩くよりも遥かに面白い。僅か一丁か二丁のところにも無限の変化がある、朝と夕方でも相違がある。街に由っては一日のうちに何遍そこを通っても飽きないようなところがある。
という「散歩論」につづけて横浜元町の風景がスケッチされ、異国情緒をただよわせていたこの土地の雰囲気が見事にとらえられている。元町通りの景観にはじまり、葉巻やチョコレート、香水といったこの町独特の匂い、それら全体を包み込んだ町の空気が「びろうどに似た触感を以てその人の頬を撫でるであろう」といった、視覚・嗅覚・触覚に訴えた町の描写によって、この作品の色合いは決定され、読むわたしたちに強烈にアピールしてくるのである。

*1:ISBN:4122034671

*2:この長篇も実は未読。前々から読みたいと思っているのだが果たせていない。『潤一郎ラビリンス12』所収