病み上がりで「瘋癲老人日記」

「瘋癲老人日記」(大映、1962年)
監督・脚色木村恵吾/原作谷崎潤一郎山村聰若尾文子川崎敬三東山千栄子/村田知栄子/丹阿弥谷津子

谷崎の原作は老人が執筆する日記体、つまり一人称となっている。映画ではそういうわけにはいかないから、老人(山村聰)と彼が執心する息子の嫁の颯子(若尾文子)を中心に、フット・フェティシズムに執着する老年の性の問題を客観的に描くという流れになる。原作がとびきり面白いのにくらべて映画が緩んでいるように思うのは、たぶん日記体一人称の原作がはらむ緊張感が、客観描写により散漫になってしまったからなのだろう。やはり、体調を物ともせず嫁の足に執着し、踏みつけられることに快楽をおぼえるマゾヒスティックな快楽は、マゾ人間の日記という体裁でないと駄目なのだ。
舅の好意を知りながら彼を翻弄する奔放な嫁の颯子を演じた若尾文子は適役と言うべきだし、老人山村聰もしかり。それにしても山村聰のいじめられかたはひどい。場内失笑の嵐だった。若尾の素足に踏んづけられ、足の指を舐め回し、汚いと罵られ、シャワーをかけられながら風呂場でのたうちまわる。いくらマゾとはいえ、情けなさすぎる。
この情けなさ、同じ谷崎の『痴人の愛』を読んで感じた憤慨と同質であることに気づいた。ナオミに翻弄され、でもナオミから離れられない譲治の姿にどうしても感情移入できなかったわたしだが、この老人に対しても同じだ。「もっとしっかりせい」と活を入れたくなるような。
なのに原作の『瘋癲老人日記』を読んでもさほどそうした感情が沸かなかったのは、『痴人の愛』と映画「瘋癲老人日記」は被虐嗜好者を客観的に描き、原作『瘋癲老人日記』は被虐嗜好者の視点でマゾを描いたからだろう。その伝でいけば、原作『瘋癲老人日記』に近い告白体・日記体をとる『卍』『鍵』は小説としては受け入れられるが(実際面白く読んだ)、映画はそれぞれ駄目かもしれない。
東山千栄子山村聰の奥さんで、村田知栄子と丹阿弥谷津子は実の娘役。実の娘の借金のお願いを一蹴し、嫁には三百万もする猫目石をポンと買ってあげる山村聰に、東山・丹阿弥の連合軍は非難囂々。ついには山村聰を怒らせてしまい、「部屋から出てゆけ!」と怒鳴られる始末。山村聰はよくあんな役を引き受けたものである。