正しい競馬オヤジ像

サイマー!

浅田次郎さんの競馬エッセイ集『サイマー!』*1集英社文庫)を読んでいたら、無性に競馬場に行きたくなってしまった。未開催で場外馬券売場状態ではあるけれど、週末、近くの中山競馬場に行こうかと計画したほどだ。でも、大事な会議の前に競馬場の人ごみからインフルエンザ・ウィルスをもらってきては一大事と控えたのだった。それなのに、別のところでウィルスをもらってきて倒れてしまうとは。
『サイマー!』を読んで競馬場に行きたくなったという心の移り変わりは、よく考えれば逆なのかもしれない。空間的にも精神的にも狭いところに押し込められたわが活動範囲を押し破り、大空の下で馬が走るのを見ながら大声を出して発散したい。そんな気持ちが、積ん読の山から浅田さんの『サイマー!』を選ばせたに違いないからだ。
浅田さんが学生以来、というか親子三代筋金入りの博打打ち、競馬ファンだったとは知らなかった。この本にまとまるエッセイを連載中に『鉄道員』が直木賞を受賞し、超多忙な執筆生活に突入するという節目がやってくる。府中の東京競馬場近くに自宅を構え、毎週律儀に競馬場に通っていたという浅田さんだが、さすがに競馬場に足を運べない週末も出てくる。
そんな多忙な直木賞作家生活の合間をぬって、「競馬エッセイ連載」(しかも連載誌はJRAの『優駿』だからお上のお墨付きだ)のための取材と銘打ち、ローカル競馬へ、海外競馬へと機上の人になる。
このエッセイ集では、日本の中央四場(府中・中山・阪神・京都)だけでなく、ローカルの中京、札幌、福島、函館を始め*2、海外のロンシャンやアスコット、ドバイ、香港などなど、競馬ファンなら一度はと夢見る憧れのG1レースの観戦旅行記がことごとく網羅されている。ただ、それらはあくまで紀行ではなく、競馬エッセイなのだ。「競馬を見る旅を楽しむ」秘訣が凝縮されている。
そしてこの競馬エッセイは、賭けの結果に一喜一憂する様子を記述するにとどまらない、豊かな人生経験に裏打ちされた深さを秘めている。

 競馬で奇蹟的な勝ちを拾うための出発点は、まずこれだろう。都市の中の異界である競馬場で、日常と同じ金銭感覚を維持している者のみが勝者たる視覚を持つ。
 マークシートに千円という金額を記すとき、その千円が外界ではどれほどの効力を持つものか、冷静に知っていなければならない。本が一冊買える。腹いっぱいの飯が食える。うまくすれば、一日を暮らせる金だ。そういう大金を、たまさか競馬場にきたからといって湯水のごとく使えるはずはない。
 そんなことでは馬券など買えるわけはない、と多くの人は考えるだろう。しかしそれはちがう。馬券を買うときには、この貴重な金を決して失ってはならないという強い意志が必要なのだ。(94頁、太字原文傍点)
浅田さんは、そんな心もちで常に競馬にのぞみ、生涯計算で言えばほぼプラスに近いという奇蹟的な成績をあげているという。JRAは掛け金の25%を控除して払い戻し金に還元している(浅田さんに言わせると「早い話が窓口で一万円を七千五百円に両替し続けているようなもの」)から、このプラスというのはまさに奇蹟的である。
また浅田さんはこうも言う。
 遊びが仕事の息抜きであるというごく一般的な考え方は、誤りである。遊びを遊びとして楽しむのは、余命を算える年齢になって初めてすればよい。遊びはおのれの生涯をかける仕事を、確実に担保するものでなければならない。
 すなわち、おのれの生涯をかけるにふさわしい道の見出せぬうちは、決して遊んではならない。道を発見し、努力を惜しまぬ決意さえできれば、遊びはすべて人生にとって有効なものに姿を変える。そしてそうした真摯な遊びを知らぬ者に、さらなる大きな道が開けることはない。(105頁)
地方競馬の高揚感とは正反対に、浅田さんは海外競馬に行くとこうした思索的雰囲気にひたるらしい。上記の感慨は初めて凱旋門賞を観戦したエッセイのなかで披露されている。
日本の競馬場に行くのにも帽子をかぶってきちっとした正装でのぞむ浅田さんだが、いざ「遊び」に向き合うと、周囲の顰蹙を買いながら多くの目の馬券を買い、レースが始まると、喉から血が出るほど怒号を浴びせかける。そんな「正しい競馬オヤジ」の微笑ましい姿が本書からにじみ出てくるのであった。

*1:ISBN:4087478912

*2:いま気づいたが、中央の競馬場のなかでは、唯一小倉競馬場だけ触れられていない。