花押変幻自在

蕭白ショック!!

子供のサッカー練習の合間に、千葉市美術館で開催中の曾我蕭白展を妻と観に行く。同僚に招待券を恵んでいただいた。感謝申し上げます。行く前に、辻惟雄さんの『奇想の系譜』*1ちくま学芸文庫)にて簡単におさらい。前回千葉市美術館で観たのは酒井抱一展だったが(→2011/11/6条)、あのときは会期末近くてたいそうな混雑だった。今回それにくらべればずいぶん閑散としていた。のんびり観ることができてありがたいのだが。
蕭白作品をこれだけ観るのは初めてのことだ。奇怪な人物たちと意表を突いた構図。繊細で細密な部分と大胆な筆の線、淡い墨と濃い墨の使い分け、それらの絵がぐるりまわりを取り囲む空間は異質である。
わたしの好みは、枯淡の境地からは程遠くゴテゴテと岩場や木々が描き込まれたマニエリスム寒山拾得図屏風」、大胆細心・濃淡のコントラスト鮮やかな「竹林七賢図襖」あたり。あとは、「京の画家たち」ということで展示されていた若冲の「鶏図」「雷神図」「鸚鵡図」「海老図」、すべてよい。
絵としての蕭白作品もいいのだが、それ以上にぐいと惹かれたのは、彼が作品に書き込んだ署名と花押である。号もさまざまだし、書き方も端正な楷書もあれば崩した書体もあり、デザイン性に富んだ字体もある。花押も一定でない。くるくると渦巻状に丸まった線と、サナギの腹節のような横扁平の積み重なりといった構成物はある程度共通しているのだが、それらが自由に組み合わされて描き込まれているのである。
辻さんは、これら蕭白の花押について、こんなことを書いている。

人目をひくのは、左右それぞれかたちを変えた、奇怪な花押だろう。これはむろんまともなものではない。花押のフォルムのおもしろさを誇張した、蕭白一流の悪ふざけというべきものである。この種の〈花押〉は、ほかの蕭白の作品にもいくつか見られるが、かたちはみな違っている。権威や因襲に対し股ぐらのぞきをするような蕭白の態度が、こんなところに出ているのだ。(『奇想の系譜』137頁)
花押とはそもそも本来が、本人であることを主張するサインであるから、一定のかたちでなければならない。一定だという前提があるから、もしそこに変化が見られればその背後に理由を想定し、また古文書に据えられた花押によって書かれた年代を推定できたりもする。そんな花押というものの性格を一蹴する闊達なデザインセンスよ。しばし絵よりも花押にみとれていたことを告白せねばならない。とくに、鼎印(たぶんこれも筆で「描いた」ものだ)と凝った花押が朱で書かれた「雪山童子図」の素晴らしさ。鬼の身体のあざやかなコバルトブルー(図録解説には群青とあるが、このあざやかさは何となく横文字が似合う)よりも、この花押に惹かれた。
蕭白の代表作ともいえる「群仙図屏風」は五月の会期後半に展示されるという。前半後半でけっこう作品が入れ替わる。これは五月にももう一度行かねばならないだろう。まあ毎週サッカーの練習があるわけだから、またおりをみて、ゴールデンウィーク明け、あまり会期末まで迫らない時期に美術館を訪れるとしようか。
2005年に京都国立博物館で開催された蕭白展に行きたかったが果たせなかった(→2005/3/27条)。しかしミュージアムショップでこのときの図録が売られていたので、思わず買ってしまった。