本屋大賞との接点

舟を編む

昨年の年末、書友の同僚とこの一年に読んだ本のベスト談義をしたとき、書友があげた本が、三浦しをんさんの舟を編む*1(光文社)だった。辞書編纂の話であるということで少し心が動いたはずだけれど、結局そこから一歩踏み出さないまま年を越し、桜の季節をむかえてしまった。
自分が読んで面白かった本などを他人にも読んでもらいたいと薦めたりするいっぽうで、他人から「これが面白いですよ」と薦められた本については、そのときは「今度買って読んでみます」などと拝聴し、そのつもりではいるものの、結局自分の読みたい本を優先するうちに忘れてしまい、きちんと実行したことがあまりない。たいへん失礼な姿勢であった(皆さんスミマセン)。とりわけ書友は信頼がおける本読みであるにもかかわらず、だ。結果的にそのことは、『舟を編む』の本屋大賞受賞というかたちであらためて思い知ることになる。
これまでわたしは、この本屋大賞という賞とは無縁の読書生活を過ごしてきた。とりわけ最近は大きなニュースにもなって、だれのどの作品が受賞したかということは知るわけだが、だからといってそれをきっかけに受賞作を読んでみようと思い立ったり、読んだ小説が受賞したりということはなかったのである。
ただまったく無縁かといえば、そういうわけでもない。たとえば第一回受賞作の小川洋子博士の愛した数式』は読み、第五回受賞作の伊坂幸太郎ゴールデンスランバー』は古本で購った。でも前者は文庫化されたのち、必要があって読んだといった感じだし*2、後者はこれまた本好きの先輩から「仙台が舞台だ」と教えられ買いはしたものの、映画を先に観てしまったので原作は未読のまま。本屋大賞との接点はこんな程度にとどまるのである。
ところが今回は違った。『舟を編む』受賞の知らせを耳にしたとき、そのニュースで紹介された内容や、昨年末のベスト談義を思い返し、これが辞書編纂の話であることをあらためて認識して、なぜそれをきちんと頭の中で受け止めなかったのか悔やんだのである。しかも自分自身の本職が「編纂」であり、辞書とのつきあいが深いにもかかわらず。
だから受賞のニュース発表後まとめて本を買う機会があったとき、当然『舟を編む』もそこに含めたのである。本屋大賞受賞作であるということをポイントのひとつに踏まえて購った初めての本だ。
読んでみるとさすがに面白い。いきなり辞書編纂のやり方やことばの解釈、大出版社の内部事情などをめぐるマニアックな話が展開し、ブッキッシュな嗜好のあるわたしにとって、この作品をこれまで放っておいたことに、あらためて悔いを感じたのであった。最初はこんなマニアックな話が最後まで続くのかと危ぶみつつ読んでいたけれど(別に個人的には続いてもいいのだが)、途中きちんと主人公まじめ(馬締)君の恋愛話もさしはさまれる。このあたりの按配も読者の評価を受けたポイントだろう。個人的には、男と女がこんなに簡単にむすばれていいのかよ、と思わないでもなかった。まあ辞書編纂をメインとするならば、このあたりに深く足を踏みいれないほうがいいのかもしれない。
それまで辞書編纂の部署のなかで浮いた存在だった西岡君が、馬締君の異動とともに少しずつ変わってゆくあたり、彼の人物造型がユニークで、この物語の面白さを左右する重要人物であると思っていたら、なんと物語の途中で宣伝広告部に異動になってしまう。話はそこから、別の同僚岸辺さんが辞書編集部に異動になった場面に転じるのだが、その間時間が13年経過している。これは読み進んでしばらくしてわかることで、最初は戸惑った。ここは三浦さんが確信犯的にしかけた場面転換なのだろう。たしか三浦さんは歌舞伎や文楽がお好きだったように思う。この場面転換は、ひょっとしたらそのあたりが背景にあるのかもしれないなあと、この感想を書きながらいま思いついた。
目指す辞書が完成に近づくにつれ、辞書に用いる紙についてのマニアックな話や、装幀の話も出てくる。物語で語られる辞書の装幀が、ほとんどそのまま『舟を編む』のそれになっている。濃い藍色のカバー、クリーム色の見返し、銀の花布と銀で箔押しされた書名とロゴ。このあたりの遊び心も素敵である。
印象に残ったのは、次の一節である。

有限の時間しか持たない人間が、広く深い言葉の海に力を合わせて漕ぎだしていく。こわいけれど、楽しい。やめたくないと思う。真理に迫るために、いつまでだってこの舟に乗りつづけていたい。(145頁)
この部分にかぎらず、わたしの本務である史料集編纂に通じるような深いことばがいくつかあった。この作品のなかで取り組まれている辞書『大渡海』はめでたく完成するのだが、はたしていまわたしが携わっている史料集は…など、こんなことでいいのだろうかと妙な反省心を抱いてしまったことに思わず苦笑してしまった。
本屋大賞受賞ということで、ドラマ化されるのだろうか。そんなことを考えながら、馬締役は、西岡役は、香具矢役は…など、あの俳優この女優を頭に浮かべて読んでいたけれど、結局誰がと思いつかぬまま読み終えてしまった。果たして誰が適役なのだろう。

*1:ISBN:9784334927769

*2:このあたりは拙著『記憶の歴史学』(講談社選書メチエ)参照。