アンリ・ルソーの世界へ

楽園のカンヴァス

先日千葉市美術館に曾我蕭白展を観に行った帰り、妻と展覧会の会場に座っている監視員の人の仕事について雑談になった。
―あの人たちはただ座って監視するだけが仕事なのか。
―そうではなかろう。何か質問されたときには答えなければならないだろうから。
―だとすると、やはりあの人たちも美術の知識がなければつとまらないだろう。毎回展覧会のたびにその企画のことを勉強するのだから。
―それはそうだ。たんに座っているだけでは勤まらないだろう。
こんな会話である。博物館や美術館の実務に携わったことがないので、監視員の人たちがはたしてどんなふうな条件で募集され、具体的にはどんな仕事を命ぜられているのか、まったく知らない。わたしの答えも当てずっぽうである。
その直後、原田マハさんの『楽園のカンヴァス』*1(新潮社)を読みはじめて、あっと思った。冒頭に登場する主人公とおぼしき女性織絵が、倉敷にある大原美術館の監視員という仕事をしていたからだ。そこでは、こんなふうに仕事が説明されている。

美術館の監視員の仕事は、あくまでも鑑賞者が静かな環境で正しく鑑賞するかどうかを見守ることにある。解説するわけでもなければ案内するわけでもない。ただ、「この画家は誰ですか」「何年の作品ですか」などと問われれば、最低限答えられるように展示作品について学んではいる。(8頁)
さらにそこから細かな仕事について書かれてあるが、ここでは略す。架空の美術館ではなく、実在する大原美術館が登場したことにまず驚いたが、さらにそのあとの展開にも驚きが待っていた。大原美術館で開催しようとしているアンリ・ルソー展のため、ニューヨーク近代美術館MoMA)から彼の代表作「夢」を借り出す交渉をはじめたとき、先方のチーフ・キュレイターが、交渉の窓口として監視員の織絵を指名してきた。彼女を窓口としないかぎり、交渉のテーブルにつかないという。彼女は若い頃、ソルボンヌを卒業して博士号を取り、ルソー研究者として活躍していた人物だったという過去がここで明かされる。
そういう優秀な研究者だった彼女が、なぜ大原美術館の監視員となっているのかという謎が当然出てくる。物語は次に2000年から一気に1983年へさかのぼり、その謎を解き明かす物語に入ってゆく。
姿を見せない謎のコレクターとして世界的に知られていた人物から指名された男女二人の研究者が、彼が所蔵しているルソーの絵をめぐり、毎日それについて書かれたとおぼしき「物語」を一章ずつ読まされ、七日間第七章までを読み終えたとき、その絵についての講評を述べ、コレクターが納得したほうにその絵を取り扱う権利を与えるという勝負を繰り広げるのである。その女性というのが、冒頭に出てくる織絵であり、ライバルが、MoMAのアシスタント・キュレイターであるティム・ブラウンだった。彼が17年後チーフとなり、交渉窓口とて織絵を指名するのである。
彼らがコレクターの家があるスイスのバーゼルで目の当たりにしたルソーの絵というのは、MoMAが所蔵する「夢」(本書カバーの絵)とほとんどおなじ構図の絵で、タイトルは「夢をみた」。果たしてこれは贋作なのか、あるいはルソーがおなじ構図の大作をもう一枚描いたのか。「夢をみた」の絵の下には、ルソーを高く評価していたピカソの「青の時代」の作品が眠っているのではないかといった興味をくわえて、読者はぐいぐいと引っぱられてゆく。
作品のなかで二人が読まされる話は、老ルソーと、「夢」のモデルとなった人妻ヤドヴィガをめぐる物語。ここに、ルソー作品に注目しているピカソアポリネールらも絡んでくる。
2000年という大枠のなかに1983年の回想的物語が入り、さらにそのなかにルソーたちの物語も挿入されるという三重の入れ子状の小説。二人が読まされる物語もフォントを変えて全文示されている。この入れ子の物語もまた魅力的なお話なのである。
七章の物語を読み終えて二人が下した「夢をみた」の評価は。勝ったほうがその絵をどうするのか。また謎のコレクターの正体は…など、いくつかの謎が最後に一気に解き明かされ、なるほどそうだったのかと興奮のうちに読み終えることになる。
ゴッホもそうだが、生前はほとんど評価されず、亡くなってから評価が高まるという画家の物語は、不思議な魅力をはらんでいる。不幸からの大逆転。しかし評価が正反対になったとき、描いた本人はすでにこの世におらず、自作に対する絶賛の声はついぞ聞くことができなかった。本書を読むと、こうした評価の逆転は、たとえ一人であっても、その作品に大きな愛着を持ち、後世に伝えていこうとする人物があってこそ実現されるのだと強く思う。この物語は「史実にもとづいたフィクション」だけれども、実際アンリ・ルソーの作品は高い評価を受けて伝えられ、いまなお多くの愛好者を生み出しているのだから、現実にもそういう人がいたのに違いない。
原田さんはかつてキュレイターの仕事をなさっていたという。以前『シネマの神様』を面白く読んだが(→2011/5/20条)、なぜ本業であった絵の世界を舞台にした小説がないのだろうと思っていた。その期待が本作品となって実現された。美術品をめぐるコレクター、バイヤー、キュレイター、研究者の相克という話は、その業界にいた人ならではの現実味を帯びている。今後おなじような世界を舞台に別の作品を書いても、二番煎じに堕してしまうだろう。その意味で本作品は、原田さんにとって一回きりの勝負だったのではないか。それに見事な勝利を収めたと断言できる。いまのところ今年のベスト小説である(本書は今年1月刊行)。
参考文献の最初に挙げられていた岡谷公二さんの『アンリ・ルソー 楽園の謎』は、中公文庫に入った1993年に購い、面白く読んだ記憶がある。『楽園のカンヴァス』を手にしてからこの本が気になり、書棚を漁って見つけ出した。『楽園のカンヴァス』読了後、間髪を入れず岡谷さんの本を読み出したのは言うまでもない。しばらくわたしの頭のなかはアンリ・ルソーに支配されることになるだろう。