岩佐又兵衛は吃又だった

岩佐又兵衛展図録

山下裕二さんが朝日新聞に書いた記事を見て、この展覧会の存在を知った(正確に言えば再認識した)。そして最近文庫に入った辻惟雄さんの『奇想の系譜』*1ちくま学芸文庫)を思い出した。同書冒頭の一章「憂世と浮世―岩佐又兵衛」が絵師又兵衛の再評価を決定的にした文章のはずで、しかしながらまだ読んでいない。展覧会を見る前に読もうかとも思ったが、時間も限られていたし、影響を受けやすい私のこと、辻さんの目というフィルターを通して絵を見てしまいそうなので、ざっくり目を通して目立つ単語だけ頭に入れて千葉に向かった。
受付で渡されたチラシを見てハッとする。というのもこの岩佐又兵衛があの「浮世又平」だったとは。すでに在世中から彼は「浮世又兵衛」と呼ばれていたという史料があり、後世近松は彼をモデルに浄瑠璃「傾城反魂香」を書いたのだ。あの、自死の覚悟で手水鉢に自画像を描き、反対側に抜けるという奇跡譚の主人公吃又こと浮世又平が彼なのか。彼の世界がグッと近づいた。
細部まで描き込んだ人物と風景、表情豊かな人間たち。色鮮やかな「堀江物語絵巻」や「小栗判官絵巻」に描かれた人間はまるで背景から浮き上がってくるかのような躍動感をたたえている。浮き上がるというのは比喩的な意味だけでなく、本当に絵から浮いているような、背景に貼り付けたようなコラージュ作品のような異質性をもっている。
又兵衛作品の伝来過程が興味深い。先日読んだ小田部雄次『家宝の行方』(小学館、→11/15条)を思い出す。
一時又兵衛が住んだ越前福井の豪商に伝えられた「金谷屏風」や、旧岡山藩主池田家所蔵「樽屋屏風」は、その名前のとおりもともと屏風だった。ところが近代に入り元の所蔵者が手放すと、六曲一双の屏風としての価値が高すぎて、そのままで購入・維持することが不可能になってしまうのだ。それぞれ屏風装の状態を解かれバラバラにされ、一枚ずつ掛幅のかたちで分蔵されるという憂き目にあう。現在所在不明になっている幅もあるという。今回残っている幅のうちのいくつかが再会している。
「和漢故事説話図巻」もまた岡山池田家旧蔵で、巻子装だったものが一紙ごと切断されそれぞれ掛幅になっている。もともと一紙ごとに完結した内容をもっていたゆえ、そうした分蔵のされかたも可能だったようだ。前掲の「金谷屏風」「樽屋屏風」も似た構成の作品だったらしい。
旧大名家が売り立てに出しても、時の流れによって買い取り手が見つからないときもある。国内に買い手がなく、海外に流出した美術品も多かったという。そうした美術品の海外流出を食い止めるため文部省が昭和8年に制定した「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」によって初の重要美術品に指定されたのが又兵衛の絵だったり、第一書房長谷川巳之吉がドイツ人に売られる直前の「山中常盤物語絵巻」を私財をなげうって買い取り、又兵衛筆と断定してキャンペーンを行なったり、川越の仙波東照宮拝殿に掲げられていた歌仙図額が又兵衛作品であることが判明したりと、発見の過程もドラマチックで、又兵衛作品からは絵画以外の興味もそそられる。