本を読んでみるものだ

ジェローム・ロビンスが死んだ

本を買って、読むきっかけにはさまざまあるだろう。著者、書名、テーマ…。その意味では、津野海太郎さんの『ジェローム・ロビンスが死んだ なぜ彼は密告者になったのか?』*1小学館文庫)は、著者ということになるのだろうか。といっても、津野さんが出した本すべてを追いかけて読むほどの愛読者ではない。むしろ最近はさっぱり読んでいなかった。
今回は、書店の新刊文庫コーナーに本書が正面の棚に面出ししてあった(吉田篤弘さんが強調するような「背中」ではなかった)のがまず目に入った。何せ和田誠さんの装画なのだから。これによって目が釘付けになり、著者が津野さんであること、帯に川本三郎さんのことばとおぼしき「ミステリのおもしろさ、温かい読後感。赤狩りの標的にされた受難を描いた好著」とあることで、手に取った。めくるとその川本さんが解説だ。帯のことばは解説文の一節なのだろう。帯にはほかに、芸術選奨文部科学大臣賞受賞の傑作ノンフィクション!」ともあった。「ミステリのおもしろさ」とあわせてこれら帯の文章、解説者、和田さんの絵、この三点によって購入することを決めた。著者、書名、テーマはこのさい購入動機の埒外にある。
さて、買ってみて当然ながら、書名にある「ジェローム・ロビンスって誰?」となる。知るためには読まねばならない。ミュージカル映画ウェスト・サイド物語」の振付などで有名な振付師とのこと。ミュージカルは観ないし、ましてや外国映画もあまり観ない。だからテーマ的にいえば、わたしの関心から遠く遠くかけ離れている本なのである。購入三点動機がなければ、たとえ津野さんの本であっても買わなかったに違いない。実際2008年に平凡社から出た単行本のことはまったく知らなかったのだから。単行本も和田さんの装画だったとのことだが、まったく気づかなかった。わたしにとってそういう距離感のある本だということが、この一事を見てもわかる。
津野さんはある日ロビンスの訃報記事を目にする。その後インターネットの記事によって彼の経歴を知った。戦後アメリカに吹き荒れた赤狩りのとき、元共産党員として尋問されたロビンスは、かつての仲間たちの名前をあげたことより、みずからが属する社会から厳しい目を向けられることになる。津野さんは彼がそうしたふるまいをするにいたった理由があるに違いないと、たくさんの文献を読み、解き明かそうとする。その過程が、「ミステリのおもしろさ」ということになる。
もっともミステリ小説のような謎解きのカタルシスがあるかといえば、あまりそれは期待しないほうがいい。彼の行動の背後にあった複雑な事情が解きほぐされはするものの、真相はこれだというほどの明快な解決はないからだ。津野さん自身の生きてきた時間と、ロビンスの活躍が重ね合わされながら、謎解きは進んでゆく。
ロビンスも、「ウェスト・サイド物語」も、ブロードウェイのことも、ハリウッドのことも、振付のことも、さっぱり知らないのだが、上記のようなミステリ的叙述の流れにのせられながら読んでいて、「記憶」という観点から興味深い記述に遭遇した。
津野さんは、かつて1963年に書いた日記に目を通していたとき、そこにジェローム・ロビンスという名前を見つけた。このときすでに自分がロビンスを既知の人物として日記に記していたふうである。「ウェスト・サイド物語」の封切りが1961年だから、63年にロビンスの名前を知っていてもおかしくない。しかし現在の津野さんは、それ(61年)以前から彼の名前を知っていたような気がすると不思議がる。そこで自分の記憶の源をたどろうとする。
ロビンスの振付師としての出世作となったミュージカル映画踊る大紐育」が日本で公開され、まだ中学生だった津野さんが何度も映画館に足を運んで観たのは1950年代の初めごろだった。だから、その頃から自分はロビンスを知っていたのだろう、と。
しかし日本公開当時映画館で売られていた「踊る大紐育」のパンフレット(の復刻版)をネット経由で入手してみると、ロビンスの名は、この映画の原案となったブロードウェイ・ミュージカルの振付師としてしか出てこない。だから映画を観たときにロビンスの名前を知ったとは思えない。
津野さんは記憶の道筋をこうたどり直す。映画「ウェスト・サイド物語」によってロビンスの名前が頭に叩きこまれた。その後、もっと若いころに夢中になった「踊る大紐育」にも彼が重要な役割を果たしていることを知り、「踊る大紐育」によってロビンスの名前を知ったと思いこんだのだろう…と。この津野さんの経験を見ても、記憶はつくり直されるということがわかる。
その「踊る大紐育」をDVDであらためて観直してみたときの感想には、若いころ夢中になって観た古い映画をいま観直すということについて、おもしろい指摘がある。

以前、あんなにも光りかがやいていて見えた映画が、いまはどことなくにぶく、うすぼんやりしたものに感じられる。ひとつには、以前とちがっていまの私には、スクリーンで、いや、じぶんの部屋のテレビ画面のなかで元気に踊ったりうたったりしている人びとのその後の人生、その衰え方や死に方までがすっかりわかってしまっているということがあるだろう。(255頁)
時間というものは残酷だ。いや、そういう時間の経過をこえて、かつての映像をそのままに見せる装置の進化が残酷だということになるだろうか。リアルタイムで観たときと、数十年後におなじものを観たときでは、そこに登場していた人びとのその後という余計な知識が雑音としてどうしても入りこんでしまう。古い映画をリアルタイムで観たわけではないわたしは、そういう雑音なしで観ることができるけれど、そうもいかない人が数多くいる。たとえばわたしにとって、石坂金田一の横溝映画や角川映画を何十年後に観るという機会があるとき、味わうことになるのだろうか。しかしながら、映画が娯楽の中心にあった時代とそうでない時期では、やはり思い入れも違ってくるのだろう。
内容とは別次元のところでもこのように得るものがあるのだから、内容にさっぱり興味がなく、別の点で少しでもひっかかるものがあれば、買ってみて、読んでみるものだと思う。