50年を隔てた犯罪映画ふたつ

「霧と影」(1961年、ニュー東映東京)
監督・脚本石井輝男/原作水上勉/脚本高岩肇丹波哲郎/梅宮辰夫/亀石征一郎/水上竜子/鳳八千代安井昌二/永井智雄/柳永二郎
恋の罪」(2011年、「恋の罪」製作委員会・日活)
監督・脚本園子温水野美紀冨樫真神楽坂恵津田寛治/児島一哉/二階堂智小林竜樹

日曜日の午後、阿佐ヶ谷から新宿へ映画のはしご。奇しくもこの二本の映画、ちょうど50年を隔てている。しかも映画の冒頭で死体が発見され、その謎を解いていくという犯罪映画・ミステリ映画の味わいもあるという共通点がある。
ふたつの映画館をはしごして二本の映画を観て、今さらながら気づいたことがあった。「映画館で映画を観るのが苦手なのだ」ということ。阿佐ヶ谷や神保町、池袋・渋谷などに足を運び、古い日本映画を観るようになってずいぶん経ち、場慣れしてそう意識することはほとんどなくなってしまっていた。でも今回忌まわしい記憶を思い出してしまった。ただ目の前にある光の幕を観るだけなのに、閉鎖的な空間のなかで集中することへの苦手意識が完全に払拭されていないらしい。交感神経と副交感神経のはたらきがおかしくなる。
もっとも「霧と影」を観た時点まではそれほどでもなかった。犯罪のあった能登の漁村や険しい崖がつづく風景、丹波哲郎が働く東京の新聞社と、東京の町並み、映し出されるそんな映像を、ミステリ映画としてのサスペンスとは無縁のところで楽しむことができた。「霧と影」については、いま水上勉の原作を読んでいるので、読み終えたらまた詳しく書きたい。
問題は二本目。50席ほどしかないラピュタ阿佐ヶ谷とはくらべものにならない広い空間であるにもかかわらず、「恋の罪」を観たら息苦しくなり、酸欠状態になった。東電OL殺人事件を材にとった犯罪映画という内容はもちろんのこと、「踊る大捜査線」でのあの清純な雰囲気の雪乃さんを演じた(可愛かったなあ)水野美紀が脱いだという下世話な興味もちょっぴり(いや、半分かな、いや…)あって観に行ったのだが、執拗にくりかえされる激しい性愛場面はまだいいとしても、そこから発展する殺人事件への盛り上げ方が尋常でなく、謎が解き明かされるあたりの緊張感に、脈がどんどん早くなっていくのが自分でもわかった。心臓が止まるかと思った。何度深呼吸をして気持ちを鎮めようとしたことか。
ということはとりもなおさず、園子温監督の演出に見事に惹きつけられたということになるのだろう。ここに登場する三人の女性、とりわけ冨樫真神楽坂恵の二面性のある演技が素晴らしい。園監督と結婚した神楽坂さんの童顔はなかなかわたし好みだなあと思うし、冨樫さんは、顔立ちとしてはもっともわたしの好みからは遠いのだけれど、街娼としての裏の顔からときおりのぞかせる媚態にドキドキする(でも結局は水野さんの顔立ちがやはり一番好みか)。
カップルで観るだけでなく、女性同士や女性一人で観に来るような人が多かったが、(中年)男として、若い女性はこの映画をどんなふうに観ているのだろうかと、妙な興味が沸いてくる。
酸欠状態で頭がぼんやりしたまま師走で賑わう新宿の町へ出る。旧知の書友の皆さんが催してくれる新著の刊行祝賀会に出るため、銀座へ向かおうと地下鉄出入り口をめざし歩いていたとき、伊勢丹の前で、最近時代劇映画のリメイク作品をたてつづけに撮っているM監督に似た人とすれ違った。いや、きっとあれはM監督だ。とはいえ、酸欠状態の頭であのような過激な映画を観たため、M監督の幻影をすれ違った人に確認したのかもしれない。