新著のことども

記憶の歴史学

わたしにとって3冊目の著書となる『記憶の歴史学 史料に見る戦国』*1講談社選書メチエ)は、いちおう今日が発売日となっている。
いままでの本の購入者としての経験上、土曜日が発売日になっているばあい、その日に店頭に並ぶということはふつうないのだろうと思う。東京だと金曜日のうちに並ぶのだろうか。昨日は夜に出張から帰ってきたため、本屋に立ち寄ってまで確認する気力がなかった。出張に行く前に、新聞広告で見つけた『群像』の最新刊(堀江敏幸さんの書き下ろし長篇「燃焼のための習作」が掲載)が気になり、長崎空港のなかにある書店をのぞいてみたけれど、さすがに文芸雑誌は置いていなかった。ましてや自分の本を探すことなど、すっかり忘れていた。
とはいいながら、出張に出る前の日(火曜)には、見本としてすでに手もとには届いてはいたのである。「自著を手にするのを待つ」という貴重な時間が失われてしまったのが、寂しくもある。
内容はともかく、ここでは“よそおい”のことを書いておきたい。よそおいといっても、カバーデザインのことではない。使われている本文字体のことである。講談社選書メチエは、通巻500番を区切りに、カバーデザインをはじめ装幀がリニューアルされた(装幀者は奥定泰之さん)。これまでのシリーズよりも白さが目立つ清潔な雰囲気で好ましいのだけれど、それとともに気になっていたのが字体だった。
これまで自分が執筆などで関わった媒体では、『歴史読本』誌もおなじ字体を用いていたはずだ。そのときからずっと気にかかっていながら、とくに深く突っ込むまでには至っていなかった。ただ、ふつう読書などでお目にかかる字体と雰囲気が違い、そういう意味での“違和感”は感じてはいたのである。
今回メチエから自分の本を出すにあたり、入稿してゲラが出てくるまでは、500番以降の本を本屋で実際手にとって、自分の文章がこの字体で表現されることを想像した。ゲラが出てからは、当然のことながらくりかえしこの字体で表わされているわが文章に目を通した。そうしているうち、不思議なことに、“違和感”が愛着へと変じていたのである。見れば見るほど味わいが出てくる字体だなあ、と。
校正段階で編集を担当されていた方とメールをやりとりしていたとき、いい機会だとばかり、「本文のフォントは何というのですか?」と訊ねてみた。筑紫明朝といいます、という答えがかえってきた。すぐに調べてみたのは言うまでもない。
筑紫明朝とは、フォントワークス(FONTWORKS)という会社が制作している字体のブランド名である。制作会社の説明文によれば、このフォントは、

本格的な長文本文用明朝体として、活字、写植時代の本質を踏襲し、明朝体とはどうあるべきかを最大限に考慮した書体です。
とのこと。オフセット印刷においても活字のようなインクの溜まりが見えてくるような独特な雰囲気を持っています」ともある。なるほどわたしが当初抱いていた違和感が、しみじみ見ているうちに愛着に変じたのにはこういうわけがあったのかと、納得した。そんな制作意図を知ると、この字体への愛着がさらに増してきた。
筑紫明朝の紹介サイトには、戸田ツトムさん、鈴木一誌さんという名の知られたグラフィック・デザイナーのコメントが出ている。戸田さんは「この書体はデジタル・フォントにおける合理性と単純な美しさの追求だけではなく、複製されながら人々のあいだを行き交う書きことば、文字の息づかいに呼応するように設計された明朝体である」、鈴木さんは「デジタル・フォントであることを一瞬忘れさせる書風のやわらかさ、写植時代の印画紙上の滲みを表現したような曲線的なデザイン……」とこの字体の利点を語っている。
そのような字体によってわが文章がよそおわれていることを楽しみつつ、紙にインクでそれらが定着され、一冊の本としてできあがる日を想像しながら校正に励んだ。字体がどうと気にするもっと前、執筆段階から、わたしはあるひとつの考え方をもって本書の執筆に取り組んでいた。それが何であるかは読んだ方が解き明かしてほしいが、この筑紫明朝という字体のおかげで、著者としてはほぼ満足できる仕上がりになったと、喜んでいるのである。
念のためもう一度言っておくが、これは書かれている内容とはまったく関係のないことである。