背中との出会い

洗面所から廊下(というほど立派ではなく、狭い通路)をはさんで向かい側に、わたしの本置き部屋がある。夜ねむる前に歯をみがきながら、わが本棚をぼんやり眺めて悦に入るのが日課となっている。心が落ちつくひとときである。
吉田篤弘さんの木挽町月光夜咄』*1筑摩書房)を読んでいて、ああ、やはり吉田さん(クラフト・エヴィング商會)の世界、吉田さんの嗜好性は自分のそれに近しいと親しみをおぼえるいっぽうで、このエッセイ集に描かれている吉田さんの生活とわたしの生活があまりにもかけ離れ、違いすぎることに、いいようのない寂しさも感じた。
この本のなかで唯一付箋を貼った箇所は次のくだりだ。

その本は『おかしな本棚』というタイトルで、やはり春の上梓を目指している。本棚に並んだ本をそのまま、基本的には本の背中だけを写真で見せてゆく。表紙はほとんど見せない。「本の本」としてはもしかして前代未聞か。しかしです、本との出会いは書店・古書店での背中との出会いにほかならず、背中を眺めて背文字を読んでその奥にあるものを推察する。背中を持たない電子書籍に対し、ささやかながら背中で抗する思い。(169頁)
電子書籍に対する違和感で、これほど本好きの気分を的確にあらわしてくれる文章があるだろうか。本との出会いは背中との出会いだというのも至言である。「背中を眺めて背文字を読んでその奥にあるものを推察する」という行為は、時間で計測できないほど瞬時になされる。この一文を読む時間よりも絶対短い。本との出会いは、まさにこの一瞬にかかっている(平置きという出会いもあるが、このさい捨象する)。
上に引用した一文にしびれたので、買ったときにパラパラ眺めてそのまま本棚に立てかけておいたクラフト・エヴィング商會『おかしな本棚』*2朝日新聞出版)を、『木挽町月光夜咄』につづけて読むことにした。もう、引用したくなる文章があちこちにあって困ってしまった。
「遠ざかる本棚」のなかで吉田さんは、「本は背中を披露してこそのものである」と、『木挽町月光夜咄』での主張をくりかえている。さて、次に長く引用する。引用することによって、このくだりを読んだときに頭のなかの妄念がきれいさっぱりなくなってスッキリしたことを、もう一度味わいたい。
本の持ち主としても、無論のこと、すべての本の背中を見たい。すでに書いたとおり、本は記憶装置であり、本を本棚に並べることは、自分の興味と探求の履歴を俯瞰することである。
既読未読にかかわらず、なぜその本を自分は買ったのか。ほとんどの場合、「これは面白そうだ」と判断して購入に至ったはずで、にもかかわらず、「面白い」と感じたその瞬間がどんどん遠ざかってゆく。それは、次の「面白い」が現れてしまうからで、ふたつみっつなら記憶されようが、いつつむっつななつやっつとなってくると、立ち上がった興味が認識の「奥」へ追いやられる。興味を失ったわけではない。ただ忘れてしまっただけなのだ。奥から手前に引き戻せば、「ああ、そうそう、これこれ、これ面白そうなんだよ」と瞬時に記憶がよみがえる。
しかし、やむを得ない物理的事情により、本棚に収められた本の半数は奥へ遠のく。(50-51頁)
まったくそのとおりなのだ。以前わたしも似たようなことを書いたことがあるけれど、もちろんそんな拙文とはくらべものにならないほど、“遠ざかる本への気持ち”をピタリあらわしてくれる文章はほかにない。
わたしの本棚もおなじように半数が奥へ遠のいている。購入したときの「これは面白そうだ」という気持ちを封じ込めたまま。歯みがきをしながら本棚を眺め、気まぐれに奥からある本を引っぱり出したとき、その気持ちがよみがえってくる。その解凍された気持ちを味わうだけでも愉しい。だから、就寝前の歯みがきタイムが毎日待ち遠しい。
「読めない本棚」という一篇。読みたくても読めない本がある。それにはさまざまな理由があった。しかしいまは、インターネットによって容易に本は見つかり、注文してから届くまでの待ち時間も格段に短くなった。たしかにいいことなのだが、「インターネット以前」の時代における本との触れあいを懐かしくふりかえることもある。
が、ありがたいことは、おおむね何かと引き換えになっていて、結論を先に言ってしまうと、我々はどうやら「読めない」を失ってしまったらしい。もう少し補足すると、「読めない時間」を失った。おかしなことである。待ち時間を「ひとねむり」にまで短縮して時間を稼いだのに、稼いだはずの「時間」が失われている。
というか、失われて初めて輪郭が得られたのは、どうやら、この世でいちばん価値のある時間は待ち時間であるということだ。待たされるあいだの「空虚」「期待」「予測」「妄想」「やきもき」「ちくしょう」「あんなか?」「こんなか?」等々が、待ち望んだ書物を彩り、絶妙のスパイスになる。そして、それでもなお待たされたりすると、予測や妄想が暴走し、読んでもいないのに誤読を始め、ついにはあたらしいものを勝手に生み出してしまう。どうしても読めないなら自分が書く―と、ペンを握る。こうして、人は待ち時間によって芸術家になった。(116-117頁)
ある一冊の本を手に入れたさに、バイクを駆って仙台中の本屋をかけめぐり、結局手に入れられず疲れ切って帰宅したという経験が何度あったか。その本屋は新刊書店であったり、古本屋であったり。たしかにこういう経験がいまの自分の書棚のあちこちに隠されている。
いまわたしはあたらしい自分の本がもうすぐ出るのを楽しみに待っているという、めったに味わえない時間のなかにいる。できあがる本はどのくらいかさがあって、ページをめくるときにただよう紙の匂い、糊の匂いはどうだろう。手にとってページをめくったときの感触はどうだろう。見ばえよりも、そんな物理的感覚への妄想がふくらんでいる。待たされるあいだの「空虚」「期待」…。でもたぶん、実際本を手にして数時間も経てば、そんなことを忘れて、自分の本を見るのが恥ずかしくなるという、江戸川乱歩的自己嫌悪が芽ばえてくるに違いない。まったく不思議なものだ。
最後に『おかしな本棚』から、もう一つ名言を。
吉田健一はどういうわけか旅先で読みたくなる。(65頁)
たとえば『旅の時間』などを旅先に持っていき読もうとしたことはあるが、結局読むことができなかった。実際旅先で吉田健一を読んだことはあまりないけれども、出張前に携えてゆく本を選ぼうと文庫書棚の前に立ったとき、吉田健一の本を何冊か抜き出して拾い読みしてしまうという経験がないわけではなく、その気持ちがしみじみとよくわかるのである。