原敬・日記・特別室

ふだん着の原敬

原奎一郎さんの『ふだん着の原敬*1(中公文庫)を読み終えた。
この本を買ったきっかけは、著者にある。もちろん原敬にまったく興味がなかったわけではない。といっても、研究者としての興味ではない。平民宰相、おなじ東北出身(原敬は岩手)という、どちらかといえば人間的な親しみをもっているという、ごく一般的感情からの興味である。
原奎一郎という名前は、洲之内徹さんの『絵のなかの散歩』*2新潮文庫)によって深く刻みつけられている。洲之内コレクション屈指の名作、海老原喜之助「ポアソニエール」を洲之内さんに譲った(というより、かなり強引に手放すはめになった)人物なのだ。
戦地で飽きず眺めていた画集のなかでも、とくにお気に入りだったのが「ポアソニエール」だったという洲之内さんは、戦後現代画廊に勤め、ある日鎌倉腰越の原さんの家に遊びに行った。

原さんは往年の平民宰相原敬の跡取り息子で、いま住んでいるのがその原敬の別荘だった家であるが、廻り縁に畳が入って、そこへ応接セットの置いてあるような広大な座敷の床の間の壁際に、ふと見ると、あの「ポアソニエール」の実物がいとも無造作に立てかけてあって、一瞬、私は自分の眼を疑った。(71頁)
この偶然の邂逅からはじまり、そこから洲之内さんが原さんに交渉して手に入れる経過は、原家から絵を持ち出すクライマックスに至るまで、小説のような緊迫感をたたえている。関根正二「魚」を古道具屋の店頭で見つけた話、萬鉄五郎の黴だらけ「自画像」を骨董屋から手に入れた話、鳥海青二うずら」を土門拳から譲ってもらった話などに並ぶ、『絵のなかの散歩』のなかでも印象深い挿話である。
そういう「いい絵を持っていた人」というきっかけから購ったにすぎない本だったが、読んでみるとこれがけっこう面白い。奈良岡聰智さんの解説によれば、原奎一郎という人物は作家だったらしいのだが、たしかに平明にして達意の文章によって、養父原敬、および養母の姿が生き生きと浮かび上がってくる。
巷間言われている平民宰相原敬像には虚像も多く、それらが養子(といっても乳飲み子の頃から育てられており実子同様だった)の立場からひとつひとつ取り払われ、あるいは逆に真の姿としてお墨付きをあたえられたりしている。
「平民」であることに強いこだわりを持ち、政治家としての功績によって爵位をあたえられそうになったとき、その空気を敏感に読み、根回しまでして爵位授与を拒否しつづける原敬の姿に、共感を持たない人はいるだろうか。
有名な『原敬日記』がいかにして書かれたのかという話(「日記を書くとき」)も興味深い。来月出る『記憶の歴史学 史料に見る戦国』*3講談社選書メチエ)のなかで、人間の記憶がどのようにして史料になるのかという実例として日記の書かれ方を取りあげた。実際経験し、目撃したできごとが文字になるまでのあいだにはかならず時間が介在する。そうなると、見たまま体験したまま文字になることは考えられない。筆者による取捨選択、記憶の脱落がかならず生じる。そんな、あまり誰も考えそうにないあたりまえのことを、史料をもとに考えようとした。
材料として、中世の日記や、『断腸亭日乗』『古川ロッパ昭和日記』などを用いたのだが、本書『ふだん着の原敬』を読んで、「原敬日記も使いたかった」と悔やんだ。原敬はこんなふうに日記を書いていたという。
さてよく人にきかれるのはこの日記の書き方だが、ひまな時代にはむろん、毎晩寝しなにその日の分を書くという方法をとっていたと思うが、しだいに身辺多忙の身となり、来客が夜半まであとを絶たないという事態になると、とてもその日の日記をその日のうちに片づけることは無理になってくる。そこで、日記の内容となる事項、つまり会った人、行った場所、話し合った時間、耳にした情報などをメモ風に書きとめておいて、後日暇を見てそれを敷衍しながら書く。(110-11頁)
「敷衍しながら」という時点で、すでに日記は人間のナマの記憶から離れ、後付けの編集という作業に侵略されている。
ところで、メモさえあれば何日分の日記でも書けるかといえば、そうはいかない。メモによって大体の要領はわかるにしても、一週間も十日も前の出来ごとを思い出しながら書き綴るのは容易なわざではないはずだが、日記の文章を読んでみると、どこにもそうした難渋の跡は見えない。(112頁)
奎一郎さんは養父原敬の記憶力に驚いているが、はたして本当に難渋していなかったのか、本当に正確に記憶をたどったのかは、書かれている内容を別の史料でたしかめなければならない。そういった分析が歴史学として可能なのかどうか、有効なのかどうか、そんなことを考えたかったので、『ふだん着の原敬』をもっと前に読んでいれば、このあたりを参考に原敬日記も素材にしていたかもしれず、残念だった。
東京国立近代美術館の「ぬぐ絵画」の記憶もあたらしいなか、「書画骨董」にて披露されているそれと深く関係しそうな挿話も興味深い。
上野で開催されていた文展を父母と一緒に観に行ったとき、会場のまん中に特別室という一室があり、そこでは「「公開し難い」裸体画数点と裸体像がならべてあ」ったのだそうだ。原敬に届いていた「優待券」には、その部屋に入る特権もあったという。著者が小学校一年生の頃だとある。
解説によれば奎一郎さんは明治35年(1902)の生まれ。明治期の小学校の就学年齢基準がわからないが(いまは満6歳以降)、6〜7歳として、明治41〜42年頃の話となるだろう。そこで「ぬぐ絵画」図録収載の年表を見ると、1908年(明治41)のところに、次のようにある。
10〜11月、第2回文展に出品の朝倉文夫《闇》(1908年)、新海武太郎《ふたり》(同)などの彫刻作品が問題となり、《闇》は性器を切断、《ふたり》は性器に木の葉型の厚紙を張り、それぞれ特別室で展示を行う。他に建畠大夢《閑静》(同)、石川確治《花の雫》(同)も特別室展示となる。熊谷守一は同展に《轢死》(同)を出品しようとするが拒否される。
たしかに所蔵作品展に展示されていた男性裸体の彫塑に、阿部定の相手よろしく性器が根本からなかったり、アダムよろしく小さな木の葉が前に付いていたり(このばあいは厚紙でなくブロンズ製)して、「変だなあ」と感じた作品があった。
原敬は洋行経験もあり、特別室に堂々と入っていったという。奎一郎少年も父に連れられ特別室に入った。母親は入らずに部屋の前で立ちつくしていたとのこと。ちょうどこの展示を観に行ったのだろうか。もっとも年表には、翌々年明治43年文展でも特別室があったと書かれているので、いずれにしてもこの時期なのだろう。読んでいた本と、観に行った展覧会がシンクロした得がたい瞬間だった。