増殖する物語

君は隅田川に消えたのか

極上のノンフィクションはさながらミステリ小説のごとし。ややもすればミステリ小説を凌駕する。
ノンフィクションすべてがミステリのような謎解きの要素をもっているわけではなく、そもそもノンフィクションというジャンル自体、謎解きに限定されるものではない。ただミステリ好きとしては、ある謎を追求していくといったスタイルの読み物に惹かれる。
ミステリ小説のばあい、たいてい虚構の世界でくりひろげられるから、たとえ力わざであっても謎解きには何らかの解決がある(わざと解決に至らない作品もあることは承知している)。いっぽうノンフィクションは、実在の人物、実際におこったできごとを題材にしている以上、謎解き要素をもった作品が、かならずしもミステリ小説のようなうまい大団円に行きつくという保証はない。しかし結末がどうであれ、謎解きというその叙述形式において読者を惹きつけることができたら、大成功だろう。極上のノンフィクション、いまふと思い浮かんだのは、渡辺保さんの『東洲斎写楽』(講談社文庫)だった(旧読前読後2000/8/27条)。
その意味で、駒村吉重さんの『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』*1講談社)は、久しぶりに読書の快楽を味わった極上上々吉のノンフィクションであった。
大正から昭和戦前を生きた藤牧義夫は、都市風景を力強い線でデフォルメして描いた版画で知られる版画家であり、24歳8ヵ月で突如消息を絶ったということが、版画家としての生を際だたせている。代表作「赤陽」は所蔵先の東京国立近代美術館でときどき展示されるし、没後しばらく経ってから発見された、これも代表作といっていい紙本墨書の絵巻「隅田川両岸画巻」も、10年前東京都現代美術館で開催された「水辺のモダン」展で観たことがある。
若くして精力的に活動し、印象に残る作品を残しながら突如失踪する。一説ではノイローゼであったとされ、住まい近くに流れる隅田川に身を投じたのではないかとも言われている。いま「一説では」と書いたが、藤牧の人となりを紹介する文章ではたいていこのように書かれているのではあるまいか。わたしも藤牧という人物の輪郭をそのようにとらえていた。
『君は隅田川に消えたのか』は、藤牧作品を発掘し再評価したことで知られる画廊「かんらん舎」の主人大谷芳久の藤牧作品との格闘をなぞりつつ、藤牧義夫という一人の人物を生い立ちから追いかける評伝であり、また、藤牧の失踪の謎に迫ろうとしたノンフィクションである。
大谷によって発掘紹介された藤牧作品の多くが、あとの人の手が加わった改竄作であるということも衝撃であるし、藤牧作品を多く所持していた版画界の大御所小野忠重の藤牧作品に対する態度も謎めいている。小野によって描かれた藤牧の末路が、これまでの藤牧義夫という人物に対する「定説」だったが、作品の伝来や、それに関わった人びとへの取材、作品そのものの分析により、この「定説」はあくまで物語に過ぎないことが解き明かされる過程は、ミステリをはるかに超えてスリリングである。
ただし、それでは藤牧失踪の謎が本書で解決されるかといえば、そうではない。そこがミステリと違う。別の解答らしきものがほのめかされてはいるものの、ではその解答が納得できる論理に支えられているわけではない。まったくもって人間は不可解であるという収めかたをするほかないのである。駒村さんの筆が、一方的な断罪を目的としているのではなく、どうにも不可解だという人間の不思議さに収斂していくあたり、謎解きミステリにはないノンフィクションらしさが感じられ、そこがまた好ましい点でもある。
「定説」「史実」としてあたりまえのように受け入れられてきたことの背後には、実に巨大な闇がひそんでおり、それが何らかの力をもった人間によってどうにでも変型されうるという、よく考えてみればありがちなことを、あらためて認識させられる戦慄の書である。これが「歴史」というものなのかもしれない。恐ろしい。