記憶が家をつなぐ

コンニャク屋漂流記

父母がいて、それぞれに祖父母がいて、そのまたそれぞれに曾祖父母がいる。さかのぼればきりがない。彼ら先祖の一人が欠けても自分という人間はこの世に存在していない、ということを意識するのは、お墓参りの機会だろうか。
星野博美さんの『コンニャク屋漂流記』*1文藝春秋)は、端的にいうと“ルーツ探し”の本である。先祖はもともと千葉外房の漁師であり、家は「コンニャク屋」という屋号で呼ばれていた。なぜコンニャク屋なのか、という疑問から始まり、外房の漁師の家に生まれたものの漁師にならず、東京に出てきて五反田にある工場で働き、最終的に独立して町工場の経営者となった祖父の一生を追いかけてゆく。その手がかりは、亡くなる直前に祖父が綴っていた自伝的ノートである。
星野さんは、自分と直接関わりのある親族である父母・祖父母たちの生きた痕跡をたどりつつ、いっぽうで本家コンニャク屋をはじめとする親戚たちが漁師をつづけている外房へもたびたび足を運び、親戚中の「古老」の話を聞きながら、星野家という一族が外房に根づき、広がっていった様子を跡づけてゆく。その結果、星野家のルーツが紀州加太にあったことを突きとめる。紀州出身の漁師兄弟が、江戸時代のはじめ頃に外房にやってきて、そこに定住したという。それがさかのぼりうる星野家の家祖であった。
外房にあるコンニャク屋一族の墓地にたたずむ星野さんは、年代もわからなくなっている大小様々な墓石を前に、感慨を漏らす。

そこに数百年という時間が流れていることの不思議。本当にここで、何百年も生きてきたのだ。よくいままで生き延びてきたものだ。(239頁)
生き延びてきたからこそ自分もある、という思いが前提になっているに違いない。墓石を前にして、そういうご先祖たちの苦労を偲び、家のつながりを体感する。たんなるルーツ探しの本にない深み*2があるのは、このような先祖の暮らし方に対する、おなじ人間としての思いやりだろう。
星野さんは、なぜ自分が先祖たちに興味を抱いたのか、自問自答する。
そもそも自分は何が知りたいのだろう。名前や出身地がわかれば、それで満足できるのだろうか? いや、私が知りたいのは出発地点やその時期ではなく、家族がどう生きてきたのかという道のりなのだ。二人はなぜ紀州を出たのか。なぜ落ち着き先を岩和田に決めたのか。岩和田にたどり着いた時、どんなことを思っていたのか……。
わずかな記憶以外に何も残されていない。だからこそ、想像する楽しみがある。先祖が私に残してくれた最大の宝物。それは想像する自由ではないかと思うのだ。(252頁)
先祖を想像するためのよすがとなるのは、一族のあいだに伝えられてきた伝承、上の引用文でいえば「記憶」である。血のつながりはたしかに人間のつながりを示す科学的根拠となる。しかしそうしてつながってきた人間が、それぞれの時代でどのように生き抜いてきたのかをあかし立てるのは、虚実まじりあいながら伝えられてきた記憶なのである。記憶を強く意識することは、ひとつの家をたもち続けてきた人間たちのいとなみを知ることにつながる。
本書のしめくくりにあたる「おわりに―二〇一一年三月一一日」のなかで、あの地震のときに自らが味わった体験を思い出しながら、記憶の大事さに思いを馳せている。
記憶――それは不確かで移ろいやすく、手渡さなければ泡のように消えてしまう、はかないもの。
だからこそ、けっして手放したくない、何よりも大切なもの。
歴史の終わりとは、家が途絶えることでも墓がなくなることでも、財産がなくなることでもない。忘れること。
いまわたしも歴史と記憶についていろいろ考えているところなのだが、本書を読んで、あらためて歴史という人間が生み出した壮大なドラマのなかに果たす記憶の役割の重要性を認識させられた。
たまたま拾い読みしていた、紀田順一郎『シリーズ民間学者23 永井荷風 その反抗と復讐』*3(リブロポート)のなかに、荷風が鴎外の『澁江抽斎』に強く影響されて『下谷叢話』を書き上げたことに触れたこんな一節があった。
『澁江抽斎』は抽斎の死後五十七年におよび、全編の半分以上の紙数がその先祖、後裔、知友ないしは縁者を描くことに費やされ、最後に現存する末裔の消息で終っている。鴎外の意図は、そのような血脈の全体像を追うことで、一個人がこの世に生を享けた意味も、あるいはその時代との関わりのすべても明らかになるということにほかならないであろう。
『コンニャク屋漂流記』における星野さんの手法と、鴎外の史伝の思想は通じあっている。いまわたしは、星野さんと紀田さんの本に影響され、『澁江抽斎』をふたたび(もしくはみたび)手に取り、読み直そうとしている。

*1:ISBN:9784163742601

*2:もうひとつ本書の深みをましている要素は、星野さんの中国体験である。異文化のなかで暮らしたときに感じた違和感などが、本書におけるルーツ探しの重要な手がかりとなっている。

*3:ISBN:484570482X