川本さんの講演を聴く喜び

ミステリと東京

熱が出て日曜日一日寝込み、明けて月曜日になると、熱こそ下がったものの、だるさは取れない。午前中そのまま横になって静養し、ようやく昼から仕事に復帰することができた。そこまでして治したかったのは、職場での仕事が山積していることもあるけれど、それ以上にこの日夜に予定されていた川本三郎さんの講演会を聴きに行きたかったからだった。一日仕事を休んで夜までに身体を回復させ、夜いそいそと丸ノ内まで出かけるなんて、道義に反している。
さてこの講演会は、『ミステリと東京』の刊行を記念してのものである。聴くためには丸善で同書を購入し、整理券をもらわねばならない。すでに秋田の出張帰りに上野駅で本書を購入し、興奮しながら読み終えた(→10/31条)。もうこのさいダブりは厭わない。講演を聴き、サインを頂戴する参加費が2500円(本一冊の値段)だと思えばいい。それでももう一冊本の現物が付いてくるのだから損はしない。
少し前に丸善に着き、講演会場のある三階フロアをぶらぶらする。ここには文庫や人文書、児童書などが並んでいる。この店に入るのはたぶん二度目。映画関係書のコーナーをのぞいてみると、購入欲をそそられる新刊書が二つ、三つ見つかった。気分が気分だけに、「もうこのさいだから買っちまえ」と、予約していた『ミステリと東京』と一緒に購入する。
さて講演会。100人定員のところ、三分の二程度の入りか。そのうち女性は二割弱だろうか。やはり他の川本さんの講演会の例に漏れず、年輩の男性が多い。
東京に住んで以来、川本さんの講演会を聴く機会が多いのは嬉しい。江戸博荷風展、新宿歴史博物館林芙美子展、アテネ・フランセでの種村季弘さんとの対談、市川荷風展、『時代劇ここにあり』刊行記念などなど。わたしの東京暮しの歴史は、川本さんの講演を聴いた歴史とも重なる。
「還暦を過ぎたので座って」と断わってからお話しは始まる。講演会の前に純文学雑誌の編集者と話していたら、最近の純文学作家はミステリをまったく読まないらしいというマクラからすぐ本題に入る。川本さんの講演はこのようにマクラによる前ふりが極端に短い。どちらがよしと言うわけではないが、余談がないのは、川本ファンにとって逆に嬉しくもある。
世の中「ミステリー」派と「ミステリ」派があるが、自分は「ミステリ」派だとし、これは瀬戸川猛資さんの影響だと言う。「でも連載タイトルは「ミステリー」…」と思ったけれど、そこは問うまい。
『ミステリと東京』のカバー表紙写真となっている植田正治の「お茶の水風景」には、奇しくも都市化した東京の象徴的な建物であるお茶の水文化アパートが写っているという話から、ミステリと都市の関係の歴史をたどりつつ、川本さんご自身が東京に着目する場合の論点が提示される。
それは、「水の都市」「変貌しつづける都市」「震災と空襲という二度の悲劇を味わった都市」であるという三点。東京を見るためには、常にこの三つの視点を踏まえなければならないと主張する。
最後のほうでは、松本清張を素材にして東京と地方の格差の問題に及び、松本清張ブームの再到来の理由を説く。これは本の中でも指摘されている、強い印象に残る論点だ。
講演後の質問コーナーでは、思い切って手を挙げて質問してみた。連載が二度にわたった(一度目の連載で本にならなかった)のはなぜか、二度の連載の間の「泊まり歩き」の仕事はこの『ミステリと東京』の仕事とどのようなつながりがあるのか、オススメの「東京を舞台にしたミステリ日本映画」は何か、以上三点。
そもそも最初の連載は分量が少なく、本になるほどではなかったのでそのままにしておき、二度目では川本さんから一回の枚数を15枚から20枚に増やしてもらったという。泊まり歩きとの関係では、ミステリ好きはたいてい鉄道好き・古本好きだ(しかしその逆は真ならず)という論が展開され、旅にミステリは似合うという点でつながっているという話。オススメの映画は、『銀幕の東京』でも紹介した「東京湾」であるということ。こういう場でしゃしゃり出ることはできない性格なのだが、好きな川本さんの好きな本ということで、つい手を挙げてしまったのだった。
銀座並木座ウィークリー最後のサイン会では、『ミステリと東京』に加え、直前丸善で購入した本を差し出した。[復刻版]銀座並木座ウィークリー編集委員会編『[復刻版]銀座並木座ウィークリー』(三交社)である。川本さんは編集委員会のメンバーの一人であり、同書にエッセイを寄稿している。
並木座のパンフレットに該当する「並木座ウィークリー」開館記念号から100号までをそのまま復刻した大部な本。3800円という高価なものだったが、川本さんの講演を聴くという機会にこそ買うべき本、サインをもらうべき本である、機会を逃すまじ、と思い切って購入した。
係員の方に同書を手渡したら、川本さんの本ではないので最初訝られてしまったが、編集委員会に川本さんがいらっしゃるのですと本を開いて説明したら納得。川本さんも本書を差し出されたら、「おおっ」と感嘆の声とともに「高い本なのにありがとう」とおっしゃって、笑顔で扉にサインを戴いた。
今回のサイン会では、『ミステリと東京』のほかに川本さんの著書をいくつかお買いに(お持ちに)なってサインをもらっていた方がいたようだが、さすがに『[復刻版]銀座並木座ウィークリー』を出した人間はわたし一人だったようだ(わたしの後ろにいた方までは不明)。
というわけで、わたしだけの記念すべき『[復刻版]銀座並木座ウィークリー』になったことになる。いそいそと帰宅してビールを飲みながら川本さんのサインの入った同書を開き、俳優はじめ映画関係者のエッセイや絵、並木座ファンの投書などを拾い読みする至福の時間。この本については、もう少し通して読んでから書くことにしよう。