社会派と思いきや…

眼

水上勉さんは、社会派推理小説の雄として、一時期松本清張と並び称された。その後創作活動の重心はミステリから離れ独自の世界を切り開いたことは周知のとおりである。松本清張作品が、現代的関心からなお色褪せない価値を有しているように、水上勉作品もまた読み直され、再評価されてしかるべきではないか。
最近光文社文庫でシリーズ刊行が開始された「水上勉ミステリーセレクション」の意図の一端はそういったところにあるのだろうし、いっぽうで細谷正充さんの解説を読むと、水上さんのミステリをたんなる社会派というカテゴリーに収めておくべきではないものとして位置づけなおそうという意図も感じられる。
ともかく「水上勉ミステリーセレクション」第一冊目として刊行された『虚名の鎖』は、社会派云々は別にしても、ミステリとして読み応え十分の作品だった(→7/22条)。第二弾『眼』*1は九月に刊行されたものなのでだいぶ時間が経ってしまったけれど、遅ればせながら読み終た。これまた最後まで一気に引っぱられる作品だった。
時期を前後して発生した神田岩本町の繊維問屋街で起きた詐欺事件と、茨城牛久沼に釣り人を装って遺棄されていた殺人死体の事件が、警視庁捜査二課の刑事と茨城県警刑事の執念深い捜査によってひとつにつながるという魅力的な展開。
経済事件を追う二課の刑事がいつしか殺人という刑事事件の手がかりを見つけ、殺人を追っていた茨城県警の刑事が詐欺事件を解き明かすきっかけをつかむといったクロスする展開にも妙味があり、それにそれぞれの刑事が心穏やかに協力し合うというより、多少のジェラシーを抱きつつ、また強烈な競争心を持ちながら捜査を進めるという人間的な展開もいい。
水上さんは繊維業界紙を発行する新聞社に勤めていたり、またみずから既製服の行商もしていたという経歴もあるので、この世界の裏事情に通暁し、神田岩本町にあった繊維問屋街の昭和30年代の風景が細かく描かれている。
川本三郎『ミステリと東京』*2平凡社)の影響は拭いがたく、本書を読みながらつい「東京と地方の格差」という論点を見つけ、ほくそ笑んでしまう。
たとえば卸問屋の組合規則に違反した問屋の商品は、「東京商品のマーク」を外されることになり、信用はガタ落ちになるというくだり。メイド・イン・東京というレッテルが売りさばきのポイントとなる。
牛久沼の殺人事件について聞き込みをしていると、殺人が起きたと推測される時期、不審な男二人連れの目撃証言があった。目撃者は地元の人物で、不審な男はどうも「東京の人間らしかった」という。この当時、牛久沼あたりの田舎では、見た目で「東京の人間」かそうでないかが判別できた。全何十戸という小規模で閉鎖的な村落社会では、スーツを着た会社員や官吏タイプの人間は異人であり、「東京の人間」と見なされる。そして実際その判断が犯人像を絞り込む糸口になりうる。
事件に関わりのある、銀座にある貴金属店の売り子として働いていた美しい女性は、この牛久沼に近い集落出身であるというのも東京と地方の問題につながる。いっぽうで捜査二課遠山刑事の家は大塚坂下町の墓地の脇にあり(このあたりの緻密な描写も雰囲気を盛り上げる)、貴金属店社長の女性宅は高輪にあるというのは、下町と山の手の格差だろうか。ちなみに詐欺にあった繊維問屋の専務宅は新宿区西大久保、社長宅は北区中里に設定されている。
「しかし、遠山君。何事もむだじゃないんだ。刑事って奴は、むだなことをむだだったと足で知るのが商売みたいなものなんだ」と、二課の遠山刑事は上司に諭される。こんな格言は、いかにも超人的な名探偵が登場するミステリと一線を画した、「社会派」に属すべきミステリにお似合いではある。
しかしこの小説はそこで終わらない。幕切れ近くになって、書名になっている「眼」の意味が読者に明かされるのである。「社会派」の硬質な足どりから一種幻想的なグロテスク世界へ飛翔する力わざ。なぜ死体が釣り人の格好にさせられていたのかという謎を解明するきっかけが多少強引な気がしないでもないが、だからこそ意表をついて面白いという言い方もできる。
水上ミステリは松本清張的再評価と同じ視点も難なく受け入れてくれるいっぽうで、たんに面白い小説を読みたいという読者の願いをも叶えてくれる魅惑の作品群である。