水上勉のミステリ

『銀の川』『野の墓標』

長男が所属するサッカーチームは千葉を活動拠点にしている。自家用車のないわが家は、このため毎週週末になると電車を三本乗りついでその方面に出かけることになる。もっぱら送り迎えは妻の役目で、どうしても都合がつかない場合にかぎり、わたしの出番だ。
練習場となっている幼稚園グランドの最寄駅の駅前商店街に、とても素晴らしい品揃えをほこる古本屋を見つけた。千葉市と言っても中心部からはずれた、緑の多い住宅地にある駅なのだ。そういうところにもこんな素敵な古本屋があるのだから、東京・千葉のような首都圏は面白い。今度の引っ越しで処分する本はここに引き取ってもらおう、そんな気持ちにさせる古本屋さんである。
たまに長男のお供をしたときに訪れるからこそ、古本屋へ行く妙味がある。毎週あそこめあてで送迎役を買って出たら、きっと飽きがきて、古本屋に足を踏み入れるときのワクワク感や有難味が失せてしまうに違いない。
その古本屋は、電車で数駅先にある大きな駅の駅前百貨店のなかに、出店も構えている。「古本市」と称しているものの、ほとんど常設店舗のようである。東京ほど高くはないけれど、それなりの値付けをしている本店にくらべ、出店の「古本市」のほうは100円・200円・500円など、均一価格のスペースに区切られ、それぞれに「おおっ」と思わせる本が混じっている。
サッカー練習が終わるまで時間をつぶすためには、本店だけではなお時間を余してしまう。電車に乗って出店ものぞいてみた。そこで手に入れたのが、水上勉さんの長篇ミステリ『銀の川』(角川文庫)だった。片道の電車賃より安い値段だったはずだが、その日はこの一冊を手に入れただけで心が弾んだ。
水上さんが松本清張の影響下でものした社会派ミステリは、“業界ミステリ”と名づけるべき作品が多い。かつて自らたずさわった繊維業界はもちろんのこと、『銀の川』の場合は、豚肉加工業界が舞台となっている。一般の人間には縁のない業界に巣くう問題点を、ミステリのかたちを借りてえぐり出す、といったおもむきである。悪くいえば、一業界でひとつの作品ができる。業界の暗部に光をあてることが、さながら社会派ミステリの役目であるかのような、ジャンル創生期の意気込みも伝わってくる。
もっとも水上作品の場合、たんなる問題点の摘出にとどまらず、ロマンチシズムが物語に彩りをあたえているから、救われている。さらに『銀の川』の場合は、荒川上流の埼玉玉淀という景勝地を舞台としており、この点では“旅情ミステリ”のさきがけといった風情もただよう。
本の整理をしていたら、以前買い求めた水上さんのミステリ選集『野の墓標 社会派傑作選5』朝日新聞社)が出てきた。刊行は昭和47年、A4ソフトカバー二段組500頁ほどの本で、たしか去年福井に出張に行ったとき、福井駅前にある古本屋で見つけたものだ(1000円)。見かえしてみると、本書には『野の墓標』『銀の川』の二長篇と短篇数篇が収められている*1。『銀の川』はすでに手もとにあったのか。
福井という町で水上ミステリを買うという喜びにくわえ、そのときはまだ持っていない作品が収められているということも購入の大きな動機になった。『野の墓標』のほうは集英社文庫版をすでに持っていたと思うので(未読)、当然『銀の川』めあて、ということになる。
そんなこともすっかり忘れ、文庫版で手に入れ、読んでしまったあと、選集の存在に気づくとは。雪がちらついていた福井の町と、そこにあった古本屋の記憶を思い出させてくれただけでも、まあ損はしていないというべきだろう。

*1:ちなみに第1巻は『霧と影』『巣の絵』、第2巻は『海の牙』『爪』『耳』、第3巻は『死の流域』『火の笛』、第4巻は『飢餓海峡』というラインナップ。