頭の中で空回りする文章

新編かぶりつき人生

田中小実昌さんの文庫新刊『新編 かぶりつき人生』*1河出文庫)を読み終えた。
カバー裏の紹介文や、井家上隆幸さんの解説によれば、何でも本書は小実昌さんの「幻の処女作」であり、長く入手困難で古書価も高かったのだそうだ。
本文庫版に「新編」と付いているのは、三一書房から出た元版がもともとの連載の「原文を削り、かきくわえ、順序を入れかえ徹底的に、といっていいほど解体している」(井家上解説)のに対し、そうした作業によって刊行時未収となっていた連載原稿を加え、再編集したものであるからとのこと。
「小実昌さん幻の処女作」を追い求めていたファンの人が、本文庫版が出たことを喜び、元版入手にそそいだ情熱を忘れるかと思いきや、そうではないだろう。幻の本と本文庫版のテキストが様変わりして、まったく違う(というと大げさか)中味になっているかもしれないからだ。かくて幻の本はいまだ幻のまま、したがって古書価もそんなに下がらないということになろうか。
わたしはといえば、本書が文庫に入ったことで初めて小実昌さんの処女作が『かぶりつき人生』であることを知った口だし、これまで読んだ小実昌さんの本も片手に余る程度にすぎないから、たいしたファンではない。
だから復員後小実昌さんがたどった波乱の人生をまったく知らなかったし、バーテンややくざまがいの香具師稼業で諸国を流れ、糊口をしのいでいたことも、初めて知ったのである。わたしが知っている晩年のあのおっとりした風貌から想像できない人生経験を積み重ねていたのだ。
本書を読みながら、文章が上滑りするというか、空回りしてうまく頭に入ってこないなあといった違和感をおぼえていた。この違和感の原因は「ヌード学入門」の冒頭部分を読んでいて氷解する。ここで小実昌さんは、ストリッパーをめぐる挿話をいろいろ紹介しているのだが、故意に、至る所でルー大柴のように横文字(英単語)をちりばめた文章を書いている。
日本語の文章のなかに平然と横文字が入るため、その箇所で文章を追うスピードがゆるみ、一定のペースで文章を読むことを難しくさせている。そしてこの現象は、横文字が目立つ「ヌード学入門」にとどまらず、別に横文字があるわけではないその前の「G線上のアリア」や他の一文にも共通することに気づいたのである。
G線上のアリア」などでは、横文字のかわりに、香具師をはじめとする世界の人々の間で使われる隠語や符牒のような「業界用語」が、カタカナのルビとして一般的にわたしたちが使う単語の脇にふられていることが原因なのだった。
普通に文字を眼で追うぶんにはすんなり頭に入ってくるはずの日本語の文章が、ルビとしての隠語も眼で拾い、頭に入れてルビがふられた元の単語と付き合わせ、そのことを示すのかと理解しながら本文と隠語のセットとして文章を読み進めようとするとき、急に外国語のような様相を帯びてくる。
そうなると、文章を読む自分のペースが乱されるだけでなく、そのままのペースで読もうとする眼の動きと、単語と隠語を組み合わせようとする頭の動きがかみ合わなくなり、文章が空回りしてしまうのである。
こうした小実昌さんの書き方は、本書中にある次の一文を読むと納得する。

これは、物のかたちがぼくには入りにくく、また、意味として整理するのもへたで、音がそのまま(といってもあやしいもんだが)録音でもするみたいに、記憶につつみこまれているせいだろう。(220頁)
英語を使うにせよ隠語を駆使するにせよ、小実昌さんの「記憶につつみこまれた」音としての文章表現がそのままあらわれたものと言うべきなのだろう。
上記引用文は、北陸のある町で出会った広島生まれのストリッパーの女の子との関係を、彼女の語り口を広島弁そのままに再現しながら綴っていくなかにある。小実昌さんの綴る広島弁(方言一般と考えてもいいだろう)での会話体には臨場感がたっぷりあって、読みながら目の前で実際に方言を聞いているかのような感覚にとらわれる。それも音を録音するように記憶し、それが意味として未整理のまま文章として再現(再生)されるゆえなのに違いない。