小説と批評の入れ子

批評というものは、たんに対象の悪口を言うことではない。それであれば誰でも務まる。批評は、文章の表面には出てこなくとも、それをする人のそれまでの人生経験などが裏に詰まっているのだ。小説もおなじだと思う。だからわたしには小説も批評も書けないとあきらめている。小説や批評を書く人を尊敬する。
原田マハさんはわたしより五つほど年長らしい。文庫に入った『キネマの神様』*1で原田作品をはじめて読んで驚歎した。そして心から尊敬の念をおぼえた。この作品は小説であるとともに映画批評も織りこまれているからだ。
40歳を目前にした独身キャリアウーマンの主人公。大企業の管理職としてシネコン運営の計画を進めていたものの、社内のトラブルから持ち場を外され、辞職を余儀なくされる。老父は八十歳を目の前にしていながら、麻雀などのギャンブル好きで、あちこちに借金をこしらえては妻と娘を悩ませる。その父親はいっぽうで大の映画好きでもあった。マンション管理人の仕事をするかたわら、空き時間にせっせと映画を観て、その「批評」をノートに書きためている。
大企業を辞めた主人公は、ひょんなきっかけから、斜陽になりつつあった老舗映画雑誌の編集者となって、そこから彼女そして父の生活は大きく方向を変えて突き進むことになる。
わたしはてっきり、心筋梗塞をわずらった父が亡くなり、遺された映画ノートを娘が読み…という、喪われたあとの父と娘の絆の物語だとばかり思っていたが、そうではなかった。勝手にそう思い込んでいたこともあって、話は意外な方向にたいへんなスピードで進んでいく。当然読む側もそのスピードにどんどん乗せられて、電車本にしていても、数行で物語の世界に入りこむことができてしまう。
原田さんは、父親の映画批評、主人公である娘の批評、そして父親のライバルの批評など、多重の映画批評を物語のなかに重層的に織りこませている。そしてそのひとつひとつが、それを書いた人の年齢や、性別、そこにいたるまでの人生経験にたしかに裏打ちされていると思わせる内容なのである。映画批評としても楽しい、それが物語の重要な要素にもなっているのだから、読み手としては二重の愉しみを味わっている気分になる。
ラストに向かっていくにつれ、物語は加速をつけて進んでいき、もはや読むのがやめられなくなる。そして結末にほろりとさせられる。小説好き、映画好きとして、こんな作品が三年前に出ていたことを知らなかったのは迂闊であった。
この作品をもし映像化するならば、老父の役は笹野高史さんをおいてほかにはいないなあと思う。ハゲ頭(失礼)でもあるし。娘は、はて、誰だろう。常盤貴子吉瀬美智子あたりを思い浮かべる。映画雑誌の伝説的な編集長(貫禄のある中年女性)は誰か。その引きこもりの息子で、ハッカーでもあるという男には、松田翔太あたり。主人公の同僚になるアニメ好きの切れ者編集者の若者は…。